2
○
綾が実家に対して覚えていることは二つ。
よく神社の掃除をさせられたこと。
無理やり家のオカルト事情に付き合わされたこと。
どちらもあまり思い出して楽しい記憶ではない。
天神七代。
泥土煮尊。沙土煮尊。
二神で一つの泥と砂の神。
あーやだやだ。なんで思い出すかなこういうこと。
綾は両手をぶんぶんと振って考えを中断させる。
が、それでも記憶は頭の中で反響する。
確かオカルトな神社だった。
木火土金水という言葉は聞いたことがあるだろうか。
中国のお偉いさんはこれを五行思想といい、天地万物の変化、また循環を意味する。
ようは自然哲学だ。
話を戻すと、神社ではそれを司る天神七代を祭っていた。それだけではないのだが、少なくとも綾の記憶に残っているのはそれだけだ。
世界の始まりに、これらの神が世界を混沌から今の世に直したと日本書紀には記されている。
神社――間宮神社に縁のある乙鳥家の子供には、昔から変わった習い事をさせられた。
「なんです? その変わった習い事って」
「うわあああああ! びっくりしたぁ!」
綾は、下の階の大家に怒鳴られるんじゃないかというくらい盛大にひっくり返った。
ボールは綾の前で、「すいません」と詫びるが、まったく誠意がこもっていないように見える。
朝の一件が過ぎた後、綾は学校があるからと言って、ボールには放課後まで待ってほしい言った。
ボールもその意思をくみ取り、授業が終わった後再会、自宅に帰った。
そして今である。
「考え事してましたね。どうかしました?」
「あのさぁ。どうでもいいんだけど君人の頭の中とか覗けたりしちゃうわけ?」
「ええまあ。綾さんだけですけど」
「プライバシーがって、まあいいか」
綾はぐだーっと腕を伸ばして、昔馴染みのちゃぶ台に体を預ける。すごくだらしない格好である。ボールはというと、今は空中に浮いておらず、綾の対面でちゃぶ台にのっかかっている。
「普通はこういうの嫌がるんですけどね。綾さんやっぱ変わりませんね」
「その普通普通って連呼すんの止めてもらえない? 人は十人十色。十人いればそれだけ違った個性があるの。それを普通の一括りにされちゃあかなわないよ。って、こういう主張ほど面倒なものはない、よねぇ」
熱くなったかと思うとすぐ冷める。切れかけの電池を入れたラジコンのような人間が綾だった。
「でも嫌じゃないですか? 自分の考えていることが他人に伝わるってのは。相当に気味が悪いと思うのですけど……」
「そもそも君人間じゃないじゃん。あー、なんていうの? 別に見られて困るものでもないし。まあ偶に見れらたら恥ずかしいなーって思うけど、まあそんだけだよね」
実にあっけらかんと切り捨てる。本当に思春期真っ只中の女子高校生なのかと疑ってしまうほどの発言だった。
「そうですか」とボールは言って、それで習い事とは? と尋ねた。
「あー、うん。それね。まあなんていうの? 世間一般で言う習い事とはちょっとずれてるんだけど、こう、わかりやすく言うなら信仰? みたいなのを無理やりやらされたわけよ」
今では信じられないことをやらされた。
あれは一種の虐待だったんじゃないかと思ったこともあった。
誰かに話したいとは思わない。
「ちょっと喉乾いた。飲み物取ってきていい?」
「はい。ここはあなたの家です。好きなだけどうぞ」
「堅いなぁ喋り方」
「そうでしょうか?」
ボールは、それこそ毬玉のように、さして広くもないちゃぶ台の上を転がりながら疑問符を浮かべていた。
実のところ、綾はなぜボールを家に招いたのか自分でもよく分かっていなかった。
ボールは九年前、神社に降ってきた宇宙人だ。そう綾は認識している。本人は妖精だなんだのと抜かしていたが綾は信じていない。
型の古くなった冷蔵庫を開け、開きの横に収納されてある牛乳を取り出してすぐに閉める。
キッチンの上に取り付けてある引き出しからいつも使うガラスコップに注いでぐいっと煽った。腰に手を当て上体をやや仰け反らせてである。
「パワフルな飲み方ですね」
「作法よ。知らんのかね君」
狭いアパートなので、ボールのほうからキッチンは丸見えだ。
昔姉と温泉に行った時、男性陣は風呂上りにこのような飲み方をしていた。以降綾もそれに倣っている。昔姉にやめろと言われたが聞かなかった。このほうがおいしいからだ。
飲み終わった食器を流しに置き、牛乳を元の位置に戻した。
「………………」
だが、ボールの所に戻る気はなかった。
正確には戻る気になれなかった。
――やめて。やめてよ!
――容赦なんて要りません。綾さん。さっさと――
頭の中でノイズが走るのだ。
ボールは友達だった。
少し特殊な関係ではあったが、一年間だけはそう思っていた。
これがただたんに、昔馴染みを尋ねての訪問であったなら綾も喜んだだろう。いや綾の性格からいえばそれも微妙だが。
しかしボールは綾に助けを乞うた。
『我々の世界を救ってください』と。
元来ものぐさで、かつ世のことがどうでもいいと思っている綾でさえ、その手を伸ばそうか伸ばすまいか迷っている。
――剥がしてしまいなさい。
またノイズだ。
これはボールの声。
九年前の、声。
ボールの手を貸すということはまた「あれ」をしなければいけない。
それが綾の決断を揺るがしていた。
「綾さん」
ボールが声を掛けてきた。ひどく単調で、パソコンの音声をそのまま使ったような淡白な音質だった。
「ひょっとしたら。私の言葉で混乱、なんてしてたりします?」
学校で言い放った言葉。
綾は言葉を詰まらせた。図星だった。
「あなたはお人好しですからね。九年前も初めは嫌だと断ったのに、結局は最後まで付き合ってくれました。本当に最後までどうでもいいような顔してましたが」
「最後の言葉は余計じゃない?」
綾はささやかな反論をするが、ボールはそれを無視する形で続ける。
「今だってそうです。私の願いを断っておきながら自宅に招くとはどういうことでしょう」
「いやだって、君根無し草っぽいし……」
「【あんなこと】を強要した私にそこまで考えてくれるのはあなたくらいでしょう。事実、私が綾さん、あなたのところだけに再び姿を現したのはそれが関係しています」
「………………」
綾は何も言えなかった。
何を言っているんだこいつは。とも。おかしなことを言う奴だ。とも。
「私はこれまで数えきれないほどの少女を魔法使いに変えてきました。そのほぼ全員に最後は嫌われました。綾さんあなたただ一人を除いて」
綾が何も言わなかったのはボールのこの言葉が来ると分かっていたからだ。
「なんか暗い話になりそう?」
「ええ。かなり。基本的に一度魔法使いにした子供の所に再び訪れるのはルール違反なんです」
「ルールとかあったんだ。初耳」
ボールは卓上で転がるのを止めた。
「綾さん。すこしこっちにきてもらえませんか?」
綾が頷く前にボールは言った。
「私がここに来た理由をお話します」