ぼくのおしごと
「!?」
突然眼球が揺さぶられて、ぼくの天地は逆転した。失われた平衡感覚にそのまま尻もちをつくと、直後に鋭い痛みが右の目を突き抜ける。
「あ、ぐ……」
「「ぷっ、くくく」」
思わず顔を抑えて悶えていると、頭の上から聞き慣れた声が降ってきた。
「ぅ……」
「「……」」
まだ無事な左目を恐恐と開くと、逆光で長く伸びた影の根元で薄っすらと開いた口の隙間から白い歯を見せる人の形が二つ。
(“坂本昌吉”と“内田久助”……)
記憶の端から、二つの影の姓名を引っ張り出していると、その二人は顔面にニヤニヤとした笑みを貼り付けたまま足元の拳大の石を拾い上げると、ぼくに向かって大きく振りかぶったのだった。
「っ」
咄嗟に両腕を交叉させて顔を守るけど、一拍遅れて襲い掛かってきた衝撃はその腕とお腹からの物だった。
「ぐっ……」
「どっちも外れか」
「ちぇっ」
口から吐き出された苦悶の音は遮る物の無い畦道を抜けて、土手上に立つ二人の道にも届いたのか“坂本昌吉”と“内田久助”が口を尖らせながら顔を見合わせる。と、
「おや、若様達。……あれがどうかしたのですか?」
「っと。なんだ、元左衛門か」
「……」
土手上の村の方からやって来た三つ目の人影が、ぼくに投石をしていた二つの影に慇懃な態度でそう尋ねた。
「なに、ちょっと賭けをしてて……なっ!」
そんな“元左衛門”と呼ばれた影の隣で、その賭けに負けた“内田久助”が何かを投擲する動作を取る。すると、三度走った痛みに顔を顰めた直後、ぬらりとした感触と一緒にツンと鼻の奥に刺さる鉄錆の様な臭いが漂い出した。
「お、やりぃ」
「ちぇっ」
その立ち昇った鉄錆臭は土手の上にも届いたのか、直前に投石した“内田久助”がギュッと拳を握って、隣の“坂本昌吉”が悔しそうに舌打ちをしながら懐からチャリッと音をさせて何かを隣に差し出したのだった。
「あー……申し訳ございませんが若様方? あれはもう無用でよろしかったでしょうか?」
「あん? おぉ、いいぜ、別に。な?」
「おう」
そんな二人に“元左衛門”が腰を折って尋ねると、小金を受渡し終えた二人は頷いて、そのまま興味を失ったようにスタスタと土手上を町の方へと歩き去ったのだった。
「……ふぅ」
そんな二人の御侍の背中を見送った“元左衛門”は軽く息を吐くとクルリとぼくの方を向き直った。直前の伺うような愛想笑いは掻き消えていて、代わりに唯唯不機嫌そうな表情だけが浮かんでいた。
「おい」
「はい」
そして向けられたいつもの呼び方に体を起こすと、今度は“元左衛門”が何かを放る様な仕草を見せる。一瞬、身構えそうになるも、それはぼくにぶつかることはなく、折り畳んだ膝先にぼとりと落ちた。
「……」
その零れ落ちた先を視線で追えば、そこにはぼくの顔ほどの長さの細長い棒切れが落ちていた。黒光りするそれはしっとりとした表面をしていて、持ち上げればぼくの体温が馴染むのに合わせて軽い重みがじんわりと掌に馴染んでくる。
「南の森だ」
そんなぼくに“元左衛門”は面倒臭そうに吐き捨てると、それ以上は何を言う事もなく、元来た道をスタスタと戻っていく。これはつまりだ、
―いつものお仕事―
ということだった。
◆
(いた……)
ぼくがその人達を見付けたのは、傾いた陽が隠れて代わりにぼやけた月明かりが木々の間に淡く差し込む時分になってからのことだった。
カサカサと鳴る夜森に紛れて誤魔化されていたけれど、少しだけ残る焼け焦げた様な臭いを手繰っていたら、ようやく見付ける事が出来た。
目を凝らしてみると、どうやらその影は三つに渡るみたいで、くぐもっていてよく聞こえないけれど、頻りに何かを話し込んでいるみたいだった。
(まあ、だからといって、ぼくがやる事に変わりは特に無いんだけど……)
音が出ないように注意して“元左衛門”から投げ渡された棒切れの両端を引くと、左右に割れた棒の間から黒い艶消しの塗られた刀身が露わになった。
漏れ注ぐ弱い月明かりの中で、唯一研ぎ澄まされた刃先だけが鋭く光るのを手で覆い隠しながら、ゆっくりと車座になった三つの影との距離を詰めていく。風の音に合わせて一呼吸、また風の音に合わせて一呼吸……。そうして、一息で飛び込めるところまで来たところで、車座の一人の声がやけにはっきりと聞こえてきたのだった。
「やはり、行方はどうにも分からんようじゃのう……」
その声はどっしりと落ち着いた渋みを感じさせるもので、どこか懊悩を滲ませた色をしていた。
「南蛮人の毛色がこうも目立たない等というのは……」
「恐らく、関の類を一切通らず山々を越えての行進ということでしょう」
「ですが、奴らの目的を考えれば人と接触せずにはいられませぬ。注意深く追い続ければ、いずれは尻尾も掴めましょう」
「ふむぅ……」
その渋い声に対して、続く二つの声は少し軽く年若い印象だった。その二人の横にはそれぞれ黒塗りの鞘に納められた刀が置かれていて、間でどっかりと胡座をかいた一人は二刀らしきものは見当たらず、代わりに巨木の様に太い腕を組んで考え込む様に野太い溜息を漏らした。まあ、ぼくには関係のない話でしかない。それよりも、
(狙うなら、武器を持っている方かな……)
どうやって、この仕事を終わらせるかの方が遥かに大事だ。と、そんな事を考えながら向こうを伺っていた時だった。
「っと、すみませぬ」
車座になって座っていた三人のうちの一人が軽く身震いをして立ち上がる。
「む? どうかしたんか?」
「?」
他の二人が不思議そうに首を傾げると、立ち上がった一人は「ちょっと用を足しに」と誤魔化すように笑いながらそそくさと少し離れた茂みに向かっていった。
(好機)
その後をすぐに追いかけるけど音は立てちゃいけない。なるべく自然に、風に紛れて、あくまでも流されるように……
「あ゛〜……」
そうして用を足すために茂みに入った一人はジョボボボボと草葉を濡らしながら、実に心地良さげに溜息を漏らしている。排泄でも一人ではないという安心感からなのか、その立ち姿は弛緩しきって隙だらけだった。
「ふぅ〜……」
そうして息を殺しながら機会を待つと、次第に小さくなった水滴音が途切れて、男が満足気な溜息とともにブルッと小さく身震いをした。
(ここ)
そして巡ってきた一番の好機に、ぼくは山草の間から立ち上がって一息に男の喉元に腕を振るった。
予定通り最短距離を走った刃先は用を足し終えた男の人の首筋から喉元を走って、想定通りに最後の一言を与えることなく地面へと崩れさせる。べシャリと崩れ落ちた胴と頭の隙間からドプッと粘着く鮮血が噴き出るけれど、幸いな事に沢山出された小便のおかげで臭いがきつくなるまでに少しだけ猶予がある。
首筋の切れた死体を手間取らない範囲で尿に濡らして、すぐに元来た道を取って返すと、幸いな事に残された二人は変わることなく真剣な表情で話し込んでいる。
「しかし、舶来呪が奥にまで侵食するとはのぅ……」
「既に九州は公儀の目が光っておりますからね。拠を得るのであれば蝦夷というのはある話ではあります」
中には耳慣れない言葉もちらほらとあるけれど、まあそれもいいや。それよりも最初に頸を斬った誰かの血の臭いが届いてくる前に、最低でもどっちかは方をつけないといけない。
(まあ、急ぎすぎるのも良くないんだけどね)
念のため、最初の一人の骸を横たえた所から半周して背後を取る。そして目の前の二人が顔を見合わせながら徐々に違和感を抱き始めたところで、その喉首を狙うためにぼくは地面を蹴る。やっぱり、固くひんやりとした木の根は一直線に間合いを踏み切るのには最適だった。
「のう」
「何でしょうか?」
「少し、遅くはないか?」
「そういえば……!?」
ぼくの右手にある刃物の切っ先が薄い喉肉のを引き裂いたのは、丁度刀を持ったもう一人が“そういえば”の“ば”を発した時だった。狙い通り、想定通り、真っすぐに伸びた刃は仲間の方に目を向けようとした男の首筋に突き刺さって、一瞬ふにょりと沈み込む様な柔らかな感触になる。けれど、次の瞬間にはプツリと弾けたそれは決壊した様に弾力を失うと、代わりに内に巡った鮮血を吹き上げてぶしゅっと錆び臭い噴水を巻き上げた。
「おんしは!?」
そうして寒々とした深緑に響いたのは、最後に残った重厚な体格の人影が放つ朗々とした怒声だった。
辺りの木々を揺らしながら発せられた怒号に、寝静まっていたはずの夜鳥が一斉に飛び立つ中、ぼくは投げ渡された匕首を構えて最後の一人になった男の人に刃先を向ける。
けれど、できたのはそこまでだった。
先手を取って無勢を五分に持ち込んだけれど、最後の一人と相対した瞬間、ぼくはそれ以上動くことが出来なくなった。
「ぬぅ……」
そう呻きながらゴロッとした両拳を地面に突いて、鋭い視線を向けて来るその姿はさながら意思を持った巨大な山のようで、押してもびくともしないどころか躊躇いなしに飛び込んだら一瞬で押し潰されて畳まれるだろうという未来がありありと幻視出来すらした。
まるで大山の様な最後の一人に艶の消された刃を向けてから、ぼくは敢えて軽く腰を浮かせて重心を舞わせた。たぶん、あの構えは旋回や方向転換には一切向いていないと思う。全身の毛を逆立てて威嚇をする野犬や狼を思わせるその姿は、明らかに突進方向に全勢力を傾けた構えだ。
(初手はいいよ……けど、二手目。切り返した直後の出鼻をぼくがもらう)
自分に言い聞かせるつもりで言葉にしながら、静かに目の前で地に爪を立てる猛獣の一手を待つ。
そうして踵を浮かせながら身構えることしばらく。幾度となく月光が叢雲に遮られては姿を晒しを繰り返したところで不意に雲を動かす夜風の裾に撫でられたのか、小さな木の枝がカラリと音を立てて丁度ぼく達の間に零れ落ちたのだったり
「「!」」
その瞬間、張り詰めていた空気がパチンと弾けて、ぼく達は互いに渾身の力で目の前の相手へと突貫を行ったのだった。
(近いっ)
当然、二人分の突貫で間にあった間合いは一瞬で押し潰されて、瞬きをする間もなくぼくと目の前の男の人の距離は精々が顔一つ分程に差し迫る。
「どっせいっ!!!」
直後、裂帛の気合とともに放たれてくる分厚い掌。二人分の突進の勢いが乗った張り手は当然の様にぼくの顔面を潰しに来るけれど、ここで半ばの逃げを打っていたのが幸いした。
「っ!」
ヒュッという風切り音と共に耳の薄皮を掠めた掌底に鼓膜が引っ張られるのを感じながらも、ぼくは何とか体を“く”の字に折り曲げて暴風の打突の真芯を回避していた。そして、返す形で伸び切った右腕の先をとる。けど、
(なっ!?)
中空を泳いだ切っ先から伝わる感触に、ぼくは思わず内心で目を剥いた。
指の一本でも折れてくれればとすり上げた匕首の刃先は、確かにその無防備な右手を捉えていた。けれど、無駄に絡み付く様なこの肉感はどう考えても筋や骨のそれじゃない。それらを覆う分厚い脂肪と皮膚、それがぼくの掌に響く感触だった。
「ふんっ!」
「か、はっ!?」
そして直後、ズンと臓腑を抉るような衝撃。水月や土手っ腹みたいな生易しいものじゃなくて、腹の中全てを一撃で押し潰すようなそれに、余波だけで肺の空気を根絶やしにされて打ち上げられた魚のように錐揉みすると、ぬっと伸びてきた太くて丸々とした腕がわっしとぼくの胸倉に噛み付いた。
(取られたら終わる!)
その瞬間背筋を走った寒気に、殆ど癇癪を起こした子供みたいにぼくは全身をばたつかせる。
「があああああああ!!!」
幼稚だろうが何だろうが構わない。形振り構っている余裕なんて無かった。ただ一時でも、一瞬でも早くこの右腕から逃れたい。
そうして、衝動に任せて手当たり次第に周りを殴りつけていると、その醜態を予想していなかったのか、胸ぐらを掴む手がフッと緩んだ気がした。
(今っ!)
もう、ここしか無い。ここで逃げ切れなかったらやられる。そんな思いで地面を掻き毟ると、ギリギリで襤褸布の端が破けたのか、ビリッという嫌な音とともにスッとぼくの尾を引く力が掻き消えた。
その勢いのまま背中を向けて走ること数瞬。背後の気配は追ってくることなく、ぼくはその気配が遠退いたのを感じて身を翻す。すると、その場で木の根が生えたかのようにどっしりと仁王立ちする男の人がそれだけで人を殺せそうな視線を向けてきていた。けど、
(あ、血……)
どうやら、ぼくの苦し紛れの一撃は多少ではあるものの目の前の岩塊の様な男の人の肉に確かに届いていたらしい。
「ふむ」
内心安堵に胸を撫で下ろしていると、不意にその男の人が唸るように鼻を鳴らした。
「…………やるのぅ、おんし」
「!」
「いや、なんでそうなるんじゃ」
そうして数拍置いて出てきた言葉に慌てて背後に匕首の刃先を向ける……けど、そこには人らしきものは無くただ暗い木々の間を吹き抜けた風が寒々しく若枝を揺らすだけだった。けど、騙されたと思って慌ててまた体を反転させると、なぜかさっきの男の人から呆れたような溜息で迎えられたのだった。
「おんしじゃ、おんし。匕首構えてくるくる回っとるおんしじゃ」
「えっと……」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。ただ、対峙しているその人のいかつい風貌と体格に比べて意外なほど穏やかな表情に、あまり自信は無かったけれど、ぼくはつい自分を指差していた。ただ、やっぱり今一確信が持てなくて最後に少しだけ首を傾げると、その男との人は苦笑交じりに「そうじゃとも」と頷いたのだった。……いや、やっぱりおかしくない?
「どうしたんじゃ?」
「いや、なんていうか……ええ?」
未だ困惑が続くぼくに、その男の人は「妙なやつじゃのう」と快活な笑い声をあげた。
「命知らずとでも言うべき見事な捨て身に迷いも淀みも一切無い太刀筋……相当な手練れじゃろうが」
「あ、う、うん……ど、どうも?」
「本当に妙な奴じゃのう」
そう繰り返して肩を揺らした男の人に、ぼくが何となく自分の頭を掻いていた。なんて言うか、居心地が悪いとも違うんだけど、少しだけ、本当に少しだけ胸の奥がざわついた様な気がした。
「と、少し話過ぎたのう」
「!」
と、そんなことをしていたら、不意に目の前の男の人がぽつりと呟いた。
その声は直前の闊達で朗々と木々に響く様なものとは違ってごく小さなものだったはずなのに、やけにはっきりと、そして力強く周りの生物達を圧倒した。ぼくはその落ち着いた声の持つ圧力に咄嗟に飛び退るけど、目の前の男の人は逃げを打ったぼくを追うことはしなかった。代わりに「ふしゅぅぅぅ……」と大気を旨に溜め込んだ蛟を思わせる吐息と共にブワッと自身の右足を高々と空に向かって持ち上げたのだった。
それはまるで褐色の巨塔だった。
平衡の取り辛い片足立ちから、更に胴を真横に倒した様な姿勢にもかかわらずびくともしない足腰は傍から見てもみっちりとした筋肉をしていて、人なんかじゃなく熊やもっと大きな猛獣の様にすら見えた。
思わず目を見開くと、一瞬ニヤッと笑った目の前の人物はブオンッと音を立てて鉞の様に高々と掲げた右足を振り下ろした。直後、ドスッという鈍い音が響いて静かになっていたはずの木々がまた騒めいた。大地を鳴らす踏み込みに周りの木々が揺れて、ただでさえ周りを圧するような存在感がまだ抑えられたものだったのかと思い知らされた気がする。
「おんしが殺した二人は……所詮は君命で触れ合った多生の縁でしかなかった。立場としては敵を討つべきなんじゃろうが、そこはむしろ多勢であったはずのあやつらを始末したんはおんしの腕を褒めるとこじゃろう」
そう言いながら、ドス……ドス……と左右の拳を木の根の間に順繰り置いてからゆっくりと視線を上げる。今にも飛び掛かろうとする獅子を思わせる例の構えになった男の人はぼくに目を向けるととても楽しそうに、それ以上に嬉しそうに獰猛な獣を思わせる表情になる。
「それに何より、この様な奥の細道でおんしの様な手練れと出逢おうとは思いもせんかった。せっかく降って湧いた戦祭りじゃ。楽しまねば損じゃろう?」
「!」
そうして、ぶわっと肥大して押し寄せてくる殺気に、ぼくは思わず匕首を斜めに構えた。
振るのにも刺すのにも向いていない、唯々受ける様な姿勢。そんな体勢を短い匕首で取ったことに自分自身で困惑しながらも、目の前でぼくの喉首を狙おうとしている羆にそれ以上の選択肢を体が思いつかなかった。
「……」
「……ゆくぞっ!」
「!」
たっぷりと時間を使ってそう言った男の人がダンッと大地を殴りつけて突貫してきた。
(速い!?)
一度躱してから先手をなんて悠長なことを言っている余裕はない。そう本能で分かる突貫に、ぼくは引き付けていた両手を突き出して逆に前へと踏み込んだ。
(引いたらやられる!)
理も非も無い。けど、多分その読みは正しかった。正しかったと思った。
けど、その是非を知る機会は一生訪れなかった
ぼくが前に踏み込んだその瞬間、ガサッという音と共にそれまで無かったはずの三つ目の気配が飛び込んできたのだった。
白い布切れの様なそれが何なのか一瞬分からなくて、やけにゆっくりと流れる眼前の光景に“さっき殺した二人の幽霊か”なんてあるはずのない感想を抱くぼくの前で、その影は突貫してきていた男の人に懐から取り出した“何か”を叩きつけたのだった。
突然現れた三人目の存在に虚を突かれたのはぼくだけじゃなかったみたいで、猪みたいに猛然と突進をしてきた目の前の人の両目が丸くなって、直後カッと稲光の様な発光を見せた“何か”にぼく達はつい身がすくんでしまう。そして、そんな中でも当然ついた勢いは止まることがなくて、
「ぐ!?」
「!?」
ザクッという掌に伝わって来た感触に、ぼくは何が起きたのかを妙にはっきりと理解した。理解させられた。
「ぬうぅぅぅぅぅ」
一拍遅れて掻き消えた白い光の中から現れたのはボタボタと右目から大量の血の涙を零すさっきの人。
「××××!!!!」
そして、その脇で何かを喚き立てるやけに白い肌をした金髪の男の人の姿だった。
(ああ、これがさっきの……)
その病的な肌の色に、妙に冷めた頭が間に飛び込んできた何かの正体へと行き着く。
その白い肌の男の人は何か焦った様にしながらも必死にぼくに何かを捲し立てているみたいだった。その視線は頻りにぼくと血を流す男の人を行き来していて、まるで「こっちに来い」とでも言うようにぼくを男の人の方に手招きをしていた。
「……」
その手に誘われた訳じゃないけれど、目の前の白い人に従う訳でもないけれど、殆ど灯に誘われた蛾みたいにふらふらと足が進んでしまう。
「!?」
そこにいたのは夥しい量の鮮血の中で顔を抑える屈強な体格の……女の人だった。
(え? これ、どういう?)
「××××!!」
こんな状況の中で、間抜けにも疑問符が浮かび上がるのを抑えられずにいると、隣にいた白い人が痺れを切らしたように腰元から小さな短刀を引き抜いた。
その光景に、ぼくはどうしてそうしようとしたのか分からない。
ただ、その白い人の短刀が振るわれる瞬間、殆ど反射的に匕首の刃先をそこに合わせていた。
「××××!?」
「えっと……」
衝動的な行動だったけど、それが目の前の白い人の意図を邪魔立てする行為だったのは何となく理解が出来た。
言葉が通じない中で青色の両目を剥いて吠えかかって来る白い人に、ぼくは思わず身がすくむのを感じながらも、下で横たわっている男の……女の人?の姿にこの場から離れられなくなっていた。
そうしているうちに、次第に白い人は気が猛ってきたのか次第に張り上げた声を咆哮みたいにして、右手に握った短刀を改めて大きく振り被る。ただ、その太刀筋は最初も感じた通り素人のそれで、隙だらけになった胴がありありと晒されていた。……だからかもしれない。
「!」
ぼくは殆ど流される様に、その白い人の胸に体を投げ出しながら、全体重を乗せて自分の匕首の刃をねじ込んでいた。分厚い胸板に一瞬グッとした抵抗感が来るけれど、それは一瞬のことでブツリと何かが引き千切れるような感触と共に銀色の刃先が根元まで沈み込んだのだった。
そうして、数度瞬きをする間、ぼくは倒れ込んだ姿勢のままジッと黙って手の内の短刀を握り締めていた。
ドッドッドと早鐘を打つ心臓の音に合わせる様に、微かに律動をくり返す白い人の青い目は最後に薄っすらと涙を滲ませてから木々の合間の星光だけを収めて、最後にはぴくりとも動かなくなったのだった。
「はぁ……はぁ……」
少しして、肺から漏れ出る血の味をした息に喉を焼かれながら、ぼくはゆっくりと立ち上がって匕首の刃を絶命した白い人の胸板から引き抜いた。
「ぐぅ……」
「!?」
そして、呻く様な囁き声が聞こえてきたのはその時のことだった。
焦燥に駆られながら振り返ると、顔を抑えた女の人は僅かに身動ぎをくり返していて、眼球越しに貫かれた右目を抑えながらなんとか自力で立ち上がろうとしているみたいだった。けれそ、それが上手くいかなくて、四肢をもがれた蜻蛉の様にグネグネと見悶えて、それ以上何もできなくなっている。
「……」
ぼくは匕首を鞘に仕舞うと、自分でもどうしてそうしようと思ったのかも分からないまま、その人のところに駆け寄っていた。
「あ、え、えっと、その」
咄嗟に起き上がろうとするその人の背中に手を差し込んで上半身を持ち上げるけど、ぐっしょりと濡れた鮮血の香りが色濃くて、くぐもった声を漏らすこの人の動きもさっきの突進が嘘みたいに弱々しかった。ただ、ずっしりと肉厚な体格は弱々しさなんか全然無くて……え?
「な、なんて?」
ここからどうしようと考えていたら、その手の下から覗いている唇がふと小さく何かを紡ぐように動いた気がした。
正直、自分でも何をしているのか分からないまま、それでもつい聞き返してしまったけど、この人はただ口元を動かすだけで音らしい音を発していなかった。それでも、繰り返し繰り返し何かを囁こうとする姿に、ぼくはもう殆どやけくそでその口元に耳を重ねる様にしていた。
「み、見事じゃ……の、う」
「!?」
聞こえてきたのは、曇り一つ無い賞賛の言葉だった。
思わず身を引くと、顔を覆う右手とは反対側の目が降り注ぐ淡い月光に満たされてキラキラと輝いていた。
「あ、あ……」
その澄み切った視線に、ぼくは何も言えなくなっていた。ただ、そんなぼくの無様な姿に、その人はくすりと笑うと意識が途切れたのか、ふつとその動きを止めてカクッと顔を傾けてしまう。
「あ、あの! あのっ!!」
その姿に体を揺さぶりかけたところで咄嗟に手を止めて声を張り上げる。けど、大量の出血に意識が途切れちゃったのか、その人はそれ以上何かを言うことはなくて、ただただ止めどなく溢れる鮮血が当りの草を濡らし続けていた。
(し、止血しないと……)
本当なら、というかどう考えてもこのまま短刀を刺して仕事を終わらせるべきだった。なのに、ぼくはどうしてかそうせずに、斬り捨てたばかりの白い人の柔らかな衣を引き裂いて、気絶した隣の人の顔面に力任せにぐるぐると巻き付けていた。正直、なんで自分がこんなことをしているのか、ぼくは自分でも分からなかった。けど、
―やるのぅ、おんし―
さっき、聞いたこの人の言葉が、なぜかずっと頭を離れなくて、それに突き動かされる様な、背中を押される様な、そんな気持ちだった。
やがて出来上がった人の身体をしたテルテル坊主に、ぼくはずっしりと重いその人の身体を背負いあげて立ち上がる。
(死体の類は……どうせ、野犬が食べちゃうよね)
そんなことを考えながら、ぼくは重い彼女を背中にしながら村の方に続く獣道を急いで引き返したのだった。
ご感想ご評価いただけましたら幸いです<(_ _)>