八月三十一日
「おーい。アイス買いに行くぞー」
「一人で行け」
家から出たところで遭遇したそいつに、とりあえず断りの言葉を返した。
「なんだい、なんだい。こんな美少女のためにアイスを買う栄誉を与えようというのだよ。ありがたく買いに行きたまえよ」
「どこが栄誉なんだよ……。ただのパシリじゃねえか」
呆れた声を返すと、にやにやと笑ったそいつが横に並ぶ。相変わらず暑い日差しの中、二人並んで日陰を選んで歩く。
「そんなことを言いながらも、買いに行ってくれるわけだ?」
「ついでだ、ついで」
どんな偶然なのか、ちょうどアイスを買おうと家を出たところだったのだ。
「ふふふん。まあ、僕は寛大だからな。思春期の少年の照れ隠しも許してやろうじゃないか」
「うるせぇ」
変に言葉を返すとからかいの言葉が何倍にもなって返って来ることがわかっているため、適当に打ち切る。
こいつと出会ってからそれほど時間が経っていないはずなのに、いつの間にかそんなことまでわかるようになっていた。
二人で適当な話をしながら、店までの道を歩く。
そう。こいつと出会ったのも、今日と同じように暑い日で、俺はアイスを買いに行く途中だったのだ。
* * *
「はあ。あちぃ……やっぱ部屋にいた方がよかったか……」
そう後悔の言葉をこぼしつつも、せっかくここまで来たのだからと歩みを進める。
八月ももう終わるというのに、夏の暑さは穏やかになる気配すらなく、じりじりとした日差しが肌を焼いていた。
普段なら、用事がなければ外に出ることもなく、冷房の効いた部屋の中で過ごすのだが、なんとなく無性にアイスが食べたくなったのだ。二本セットで入っているタイプのあのアイスを。
家の冷凍庫の中を確認しても、あいにく買い置きのアイスは切らしてしまっていて、家族もちょうど出払っていた。
買ってきてもらうように家族に頼むことも考えたが、夏休みの課題はすでに終わっていて、用事もなく暇を持て余していたこともあり、ついうっかりと買いに行こうと考えてしまったのだ。
この炎天下の夏の昼間に。
「アイス食っても涼しいの一瞬だよなぁ……」
日差しの強さと目に入る影の濃さにげんなりとしながら、思わず独り言がこぼれる。こんな暑い日に外に出る人はやはり少ないのか、周囲に人は見当たらないため、その独り言を聞く人もいない。
やはり真夏の昼間に出歩くものではないと再確認しつつ、少しでも涼しい場所を選びながら歩いていく。
そうしてアイスを買いに店まで向かう道の途中、少し傾斜のきつい上り坂を歩いているときに、突然、声をかけられた。
「おめでとう! 君は選ばれた! この僕の青春の一ページの添え物としてな!」
急な言葉に面食らい、顔を上げると、坂の上に人影があった。
オーバーサイズのTシャツに、膝下くらいまでの裾の広がったジーンズ、大きな麦わら帽子を被っていて、その下には強い視線を放つ瞳がこちらを向いていた。
その顔は、何の心の準備もせずに見たなら、はっと息を吞むほど整っていて、思わず立ち止まって見つめ返してしまっていた。
身長はおそらく俺よりも低くて、同級生くらいに見える女性だ。人の年代を的確に予想できる方ではないのだが、大学生になると髪を染める人が多いというイメージがあるため、染められたことのなさそうな黒髪が肩につくかつかないかの長さで揺れているのを見ると、同年代のように感じられた。
先ほどの声はおそらくこの目の前の女性から発せられたのだろう。少し高めのやわらかく穏やかそうな声と、放たれた言葉やその顔に浮かんでいる表情から受ける印象が不釣り合いで、自分よりも年下の、どこか不安定な「少女」のようにも見えた。
と、うっかり見つめ合ってしまったのだが、すっと目をそらし、横を通り抜けることにする。
こんな暑さだ。夏の暑さにやられた人がいてもおかしくない。
こういう場合はきっと視線を合わせないのが大事なはずだ。刺激しないようにと視線をそらしながら少し距離をあけて通り過ぎる。
「おいおい、君ィ。こんな美少女に話しかけられて、それはないだろう!?」
あ、やっぱりやばい人だった。
少し早歩きにして、なるべく早めにこの場を離れることにする。
確かに、さっき目にした顔は整っていたため、なるほど美少女と呼ぶに値するだろう。だが、自分で自分のことを美少女と呼んで、知り合いでもない相手に話しかけて来る。これはほぼ確実に不審者であろう。間違いない。
「おーい。君? 無視かい? さみしいなァ」
後ろから話しかけて来る声は聞こえるが、歩く速さは緩めずに進む。
少し歩いた先、目指していた場所にたどり着き、駐車場を通り抜けて、店内に入る。
周囲に人がいれば、あの少女も話しかけて来ることはないかもしれないと考え、ほっと息を吐いたのだが、予想に反して、相変わらずの声が聞こえる。
「やあ、やっぱり店の中は涼しいなぁ。なあ、君もそう思うだろう?」
これは俺に話しかけているわけではないと自分に言い聞かせながら、元々の目的通りにアイス売り場へと向かう。
予想外のことが起きたが、ここまで来てアイスを買わずに帰るのは、さすがに徒労でしかないだろう。
不思議と店内に人の姿を見かけない。だが、これだけ暑い夏の昼間なのだ。外に出る人も少ないだろうから、そんなこともあるかもしれないと、頭の片隅によぎった疑問は、意識することもなく消えて行った。
ようやくアイス売り場のケースの前までたどり着き、あごをつたった、汗なのか冷や汗なのかわからないものを雑に拭う。
「お、そのアイスか。半分くれるつもりかい?」
「んなわけ――」
もともと買うつもりだった二本セットで入っているタイプのあのアイスを手に取ったところでかけられた声に思わず言葉を返そうとしてしまったが、相手の方を振り向く途中でそのことに気付き、言葉を切る。
俺が返事をするとは思っていなかったのかもしれない。振り向いた先にいた相手は、きょとりと大きな瞳を瞬かせ、その一瞬後に、にんまりとした表情に変わる。
「そうかい、そうかい。この美少女と分け合って食べたかったのだね。よかろう。特別に許可してやろうじゃないか」
本当にこいつはどういうつもりなのだろうか。口悪くそんなことを思いながら、返事はせずにそのままレジの方へと向かう。
俺がさっき返事をしてしまったせいなのか、後ろをついて来るそいつは、これまでと違って話しかけては来ず、ふんふんと鼻歌まじりで楽しそうな空気が伝わって来る。
そうしてレジまでたどり着いたのだが、いつもと違ってなぜか人がいない。
店内に他に客が見当たらないとはいえ、レジの周辺に一人くらいは店員がいるものだと思うのだが、きょろきょろとあたりを見回しても、店員らしき姿は見つけられない。
近くに姿があれば声をかける手もあるのだが、どこにいるかもわからない場合はどうしたものか、と、アイスを手にレジ前に立っていると、後ろについてきていたあの少女がすっと前に出る。
「ふむ。そうだな、ここは僕が払ってあげよう」
そう言った少女は、俺の手の中のアイスを取って、自らのお金とともにレジに置いた。
「いや――」
断るつもりの言葉は、少女の置いたお金が、一瞬の後に釣銭とレシートに変わったのを見て、途切れた。
「……は?」
「さて。店の中で食べるわけにもいかないからな。外に行くか」
こちらを見上げて笑うその表情は、いたずらが成功した子どものようだった。
* * *
店の外の日陰になった場所に二人で並んで立つ。あいにくこの店にはイートインスペースのような空間はないため、ひとまず店の出入りの邪魔にならない場所だ。
「ほい。君の分だ」
「……ありがとう、ございます」
自分が買おうとしていたアイスを、なぜか見知らぬ少女に購入され、半分だけ渡される。いったいこれはどういう状況なのだろうかと首を傾げたいが、とりあえず渡されたアイスに対するお礼の言葉を口に乗せた。
……別に、自分で買うつもりだったのだが。
「もっと気楽に話してくれたまえ。君と僕の仲じゃないか」
「いや、どんな仲……」
言動は年下のようにも思えるのだが、知らない相手であり、年上かもわからないため、一応丁寧に話した方がよいかという考えは、相手のその言葉でどこかに飛んで行った。
そんな俺の様子に、少女はどこか機嫌のよさそうな顔でにやにやと笑っている。
「さて。君ももう気付いたと思うが、今この世界には君と僕の二人しかいないんだ」
「……は?」
アイスの容器を開け、食べようとしていた手が止まる。突拍子もないことを言われると、人の思考というものは止まるものらしい。
相手の顔を凝視するが、視線の先の相手は気にした様子もなく、アイスの容器に口をつけ、おいしそうに食べている。気楽なもんだな、おい。
「ああ、別に他の人が死んだとか、地球が滅亡したとか、そういうわけじゃあない。単に僕の願いを叶えてもらうために都合のいい世界になっている、と、そんな風に考えてもらえればいい」
「……願い?」
思考が追いつかないまま、相手の言葉の一つを聞き返す。
「うむ。甘酸っぱい青春の思い出とやらをつくってみたくてだね。そして君は、この僕の青春の一ページの添え物として選ばれたのだよ。光栄に思いたまえ」
「……なんだそれ」
あまりにも理解の範疇を超えていて、気の抜けた声を出しながら、手にもったアイスを無意識に口にしていた。口にした甘さはいつもと変わらず、夏の暑い空気の中で、少しだけ涼しさを運んでくれた。
「む。君は暗黒の青春時代を過ごしたいとでも言うのかね? 思春期の若者なら、甘酸っぱい青春の一ページや二ページの思い出くらい、つくってみたいものじゃないか」
なんだかよくわからないが、こだわりがあるらしい。
「それでなんで、こんな状況になるんだ?」
さっきのレジでのお金が一瞬で変わった現象は、手品か何かで説明がつくかもしれないが、今もなお人の姿を見かけることがない現状は、世界に二人きりというこいつの言葉を信じてしまいそうになる空気があった。
「ふむ? ……ああ、そうか。説明が足りていなかったね。人は死ぬ前に一つ願いを叶えてもらえることがあるのだよ。そして、僕の場合は、その願いが君と甘酸っぱい青春の思い出をつくることなのさ」
「……はあ」
あまりによくわからなさ過ぎて気の抜けた返事をする俺に対し、片眉を上げたそいつは、ふふんと笑って言葉を続けた。
「君も自分が死ぬ日を期待して待つがいい。――まあ、もっとも、君が願いを叶えてもらえる存在になれるかどうかはわからないがね」
とりあえず、こいつの言葉を信じるなら、俺は今、この少女の願いによって、この少女と二人きりの世界にいるらしい。
「それで、なんで俺なんだ? 知り合いでもないだろ」
「……君は、こんな美少女と甘酸っぱい青春の思い出をつくれる幸運をなんだと思っているんだい!? 僕が選んだことに感謝したまえよ、君ィ」
純粋に不思議に思って口にした疑問に、一拍置いて、混ぜっ返すような言葉が返って来る。
「へえ。『美少女』だって言うんなら、もう少し『らしい』言葉遣いぐらいしたらどうなんだ」
「あいにく僕は、君が認識しやすいように存在する道理はないんだよ。君ィ」
なんとなく癇に障って言い返してしまったが、少女は飄々とした風に言葉を返してくる。
こんなやつ、『推定』少女と呼ぶくらいでちょうどいい。見た目の美少女っぷりと、それに反した言動の生意気さ、それをあわせて考えれば『推定』とつけるのが似合いだろう。そんなことを心の中で思った。
* * *
あの日と同じように、日の光が眩しい道を歩く。
隣を歩く『推定』少女は、そういえば、あの日と同じ格好をしているかもしれない。
ふと、そんなことに気付く。
あの日から、二人きりになったこの町で、こいつに連れられていろいろな場所に行った。
花火をしに行った先でも、プールでも、図書館でも、夏祭りでも。夏休み中だとしても人がいるであろう場所や時間でも、あの日から俺とこいつ以外の人の姿を見ることはなかった。
店にも道にも他に人がいない状態だったが、店で購入した品物の代金を払えば釣銭が返って来るし、運転する人の姿が見えないのになぜか動くバスや電車は、こいつの望む通りの場所へと俺たちを運んで行った。
花火の日、随分と遅くなった帰り道で、こんな田舎では最終バスの時刻も早いから、どうやって帰るのかと思っていたあのときも、何事もなくバスはやってきて、それに乗って帰ったのだ。
採算が取れないからと、ここ数年はバスや電車の本数もどんどんと減っていたから、こいつの思い付きでの行動にタイミングよくバスや電車がやって来るのを見ると、なるほど確かにこいつの「願いを叶えるのに都合のいい世界になっている」という話も信じざるをえなかった。
八月三十一日。あの日終わるはずだった夏休みは、二人きりのこの世界で、まだもう少しだけ続いていた。
相変わらずじりじりと肌を焼く日の光の強さに、どうせ都合のいい世界にするなら、夏の暑さももう少しましにしてほしいものだが、と、木陰を選んで歩く足をゆっくりと進めながら、勝手なことを思う。
あの日と同じように、店の中に入り、あの日と同じアイスを買って外に出る。
強い日差しを避けるように、日陰で二人並んでアイスの容器を開けた。
「あの日と同じだな」
こいつも、俺と同じように、あの出会った日のことを思い出していたらしい。目を細めて眩しそうにしながら、日の光に照らされた景色を眺めている。
同じように、ぼんやりと景色を眺める。何の変哲もない、町中のよくある景色だ。
ゆっくりと、名残を惜しむように食べていても、一人分のアイスの容器はすぐに空になってしまう。
「楽しかったな」
「……そうか」
ぽつり、と、つぶやくように落とされた言葉に相槌を打つ。お互い、目の前の景色を見たままで、視線を合わせることはない。
手持無沙汰に空のアイスの容器を握った。
「『青春の思い出』とやらは、つくれたか?」
「ああ。存分にな!」
隣で、にぃっと笑う気配がする。きっと、あのいつもの強気な笑顔をしているのだろう。
たっと隣の気配が動き、その姿が日の光の中に躍り出る。その眩しさに目を細めた。
「では、また、な」
「『また』があるのか」
そいつの言葉が妙に引っかかり、片眉を上げて問い返すと、いつものようにこちらを煙に巻くような言葉が返って来る。
「ああ。君が思うような形ではないだろうがね」
「それはどういう――」
「……さよなら、またね」
その言葉一つを残して、瞬き一つの間に、その姿は消えていた。
急に蝉の声が大きくなったように聞こえる。
車道を走り去る車の運転席には人の姿があり、あの俺たち二人だけだった世界が終わったことを知る。
背後の店の自動ドアが開けば「いらっしゃいませ」という店員の声が聞こえ、店内に入ろうとする人とすれ違う。
手にしたアイスの空き容器だけが、あの夏の日々の名残を俺に残してくれていた。
そうして、俺の、長い夏休みは終わったのだった。