その三(完)
これで良かった。めでたしと思いきや、そうは世の中甘くはなかったのである。彼女と猫を降ろすため、途中に寄ったいつものスーパーマーケットの駐車場で警察に連行されてしまったのだ。
ありがとうございましたとお辞儀して、笑顔で走り去ってゆく彼女と猫の後ろ姿を見送ってから、やれやれと安堵のため息もついて一人になった車内で私は目を閉じていた。
ずっとキリキリしていた胃腸の痛みが今になってようやく落ち着いてきた。
少しばかりじっとして、緊張と馴れない出来事の興奮とを醒ましたかった。
外はもうすっかり暗くなっていて、スーパーの入り口から放たれる店内の光や駐車場を行き交う車のライトが眩く輝いている。
運転席の半開きにした窓から涼しい風が運んでくる微かな買い物客のざわめきに秋の香りと虫の音色とが渾然一体となり私の疲れた体をどこまでも心地よく包み込んでゆく。
数分、いや十分位だろうか、少し眠りかけていた。
ふいに、コンコンと窓をノックする音で現実に引き戻された。窓の向こうには、制服を着用した紛れもない警察官が二人、私の顔をじっと見つめていた。
すいません、免許証見せて貰って良いですか?それと、さっき女の子を乗せていましたよね?貴方のお嬢さんですか?
いや、違います。
車の窓から警官の顔をゆっくり見上げて、落ち着いて質問に答えながら、終わったな…と思った。
お嬢さんでなければ、どなたなんですか?どういう関係なんですか?
宜しければドライブレコーダーの画像を提出して貰えますかね、任意ですが、ご協力を…。
警官の言葉は穏やかだったが、その目は一ミリも穏やかではなかった。
ゆっくりと、しかし畳み掛けるように私に話しかけてくる警官の向こうで、もう一人の警官が無線で本署と忙しなく連絡を取り合っている。早口な言葉の端々に、小学生から中学生位の女児とか誘拐とか不審な車両とか、中年男性とか、免許証の確認とか、応援お願いしますとか不穏な言葉が途切れ途切れに聞こえてきて、私の安らぎかけた心と胃腸とをグリグリと粉微塵に打ち砕いてきた。
やがて私は任意同行で、パトカーに乗せられて警察署に連れていかれた。
サイレンを聞き付けた近隣住民や買い物客が何事かと群れをなして集まり遠巻きに私と警官とを眺めていて、スーパーの駐車場は一寸した騒動になった。数台のパトカーが発するものものしい赤色灯が田舎の穏やかな夜を緊迫した光で照らしていた。
その緊迫した光の最たる渦中に私はいた。
鑑識らしき人達も来て、私に了解を取ってから車の指紋やら毛髪やらの採取を始めた。
ドライブレコーダーのデータも勿論押収されてしまった。
私はあくまで冷静に毅然とした態度を取ろうと必死に顔をしかめてみたが、無駄だった。
いくら意地を張り頑張ってみても体は正直なものである。警官に付き添われパトカーへと歩きながら、体は言う事を聞かず、ただガタガタと情けなく震え上がるばかりであり、涙まで滲んできた。普段偉そうなことを言っていても無駄である。全く身をもって自身の無力さと頼りなさとを激しく思い知らされたのだった。
後にして思えば、致し方ない気もする。
テレビニュースで見たような光景を、初めて自身で体験するのだ。それも、傍観者ではなく当事者として。何処の何人がシラッと冷静な顔をしていられるものか。
取調室で、先程の警官とは全く雰囲気の異なる、張りつめた空気を帯びた険しい目をしたスーツ姿の警官に事情聴取を受けた。
私は不安と絶望を抱きつつ、震えながらもあくまで淡々と事実を述べた。世間的には不味い行為とは判っていたが、別にやましい行為をした訳ではないのである。
きっとこの人達も事情を知れば解ってくれる。
無駄かも知れないが、それだけを願いながら、不安に耐えていた。
ここで、全くもって不可解な事態が発生した。
肝心の彼女は、警察の必死の捜索にもかかわらず、いくら捜しても見つからなかったのだ。
それどころか、ドライブレコーダーにはずっと私以外の誰も映っていなかったのだ。
警察で念入りに調べたスーパーの監視カメラにも、車が入ってきて運転席に座り一人佇んでいる私だけが映っていたそうな。
どういう事だろう?
そもそも女の子など存在しなかった、とでもいうのだろうか?
だとしたら、一人で隣町の山の中腹の小ぢんまりとしたあの家に何をしに行っていたのか?
私は一体何を見て、何と話していたのだろう。
狐につままれたようとはこんな事をいうのだろうか。私自身も、また取り調べていた警官も、意外の事態にひどく狼狽えていた。
夜も更けて日付の変わろうとする頃、結局事件性はないとして不承不承ながら私は帰って良いとの事になった。
私は何とか釈放される運びとなったが、まだ警察の疑念は晴れないらしく、帰る前になるべく未成年の子供には近付かぬよう念入りに諭され、反省文に拇印まで押印させられる始末だった。
その後、深夜である事もあって、ご丁寧に警察署から置いてきた車のあるスーパーの駐車場までパトカーで送ってくれた。
その時に、白髪混じりの年配の警官から聞かされた。
下手すると、貴方は幽霊と会っていたのかも知れないですね。
その女の子、体にアザはありませんでしたか?
いやね、もう何年前だったかなぁ…。かつてあの辺りで虐待を疑われる女の子の事件がありましてね、ある日行方不明になってしまったのですよ。母親のいない家庭でして、当然虐待の報告を何度も受けていた父親を我々は厳しく調べました。結果として、可哀想な話ですが、貴方の行かれた隣町の山中、廃墟みたいな小ぢんまりとしたあの廃屋の敷地内から女の子と飼っていた猫の遺体が一緒に見つかりましてね。
猫は随分前に父親が殺して、冷凍庫に隠しておいたのを、娘を虐待の果てに死なせてしまったので、ついでに一緒に埋めたそうなんです…。
本当に可哀想な事件でした。我々がもっと早く動けていれば、未然に防げた悲劇かも知れない。
運転席でハンドルを握りながら、ポツリポツリと呟く年配警官の後ろ姿はひどく疲れて落ち込んで見えた。
それからというもの、たまにあの辺で猫を探している女の子の幽霊が出るんだと噂はあってね。
丁度貴方の供述した女の子とそっくりの風体の子供です。驚きました。我々としては事件の解決をもって、その子供の供養としたかったのですが、その子の悲しみはまだ消えていないのですかね…。
スーパーの駐車場で、私を降ろした年配警官は立ち去り際、最後にこう言った。
貴方も大変でしたね。ま、女の子の事は忘れた方がいいですよ。しかしこれからも知らない子供とはなるべく関わらない方が貴方の身の為ですよ…。
年配警官から真顔で忠告を受けて私は無言で頭を下げた。
カーラジオから音楽が流れてくる。まっさらに生まれ変わって…。今風の洒落たラジオの歌に一人心で呟く。
そうだよなぁ…。本当にそうしたいよなぁ…。でもそんな事、出来ないよな。重たい足で、これからどう生きていくか。どんなに悲しく切なく疲れていても、また嫌でも朝は来るんだよな…。この歌の通りだよな。本当に…。
彼女は不意の断絶によって最早やり直す事さえ出来なかったのだ。
一寸感傷的になりながら、車をゆっくり走らせて行く。
消えてしまった彼女は、愛する猫と巡りあえて満足して成仏できたのだろうか?
あるいはまだ夜のスーパーの敷地に彷徨い続けているのだろうか?
まさか車の後部座席に憑りついていないだろうな…。
バックミラーに映る後部座席に彼女の笑顔と猫の戯れる姿がほんの一瞬の刹那、白くうっすらと視界を掠めて消えた気がした。
私は苦笑しながらまたラジオの歌に聞き入った。
等間隔に続く街灯が、まっすぐな寂しい道をどこまでも果てしなく照らし出している。
半開きの窓から入ってくる風は、もうすっかり秋の風だった。