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秋の風  作者: 若葉
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その二



まぁ、早く帰りなさいよ。猫はきっと寂しくなったら家に帰ってくるよ…。じゃあね。先に帰るからね…。


年のせいだろうか、或いは日々の運動不足の故であろうか、不意に猛烈な腰の痛みを覚えた私は、少し離れた森の奥の方で言葉もなくキョロキョロしている彼女の小さな背中にそっと小さく声をかけてから、尻餅付きそうな体勢から太い木の幹に掴まりつつよろよろと立ち上がり、何故か彼女に後ろめたさすら覚えつつ、逃げるようにまたいつもの孤独の家路に着いた。



道々、用水路や田園から秋の虫の鳴く一生懸命の声が凄いばかりに聞こえてくる。

虫の音色に包まれて歩く内に、まるで私自身が虫の一匹になったような錯覚すら抱いた。

静かな夜空に響き渡る悲しいような、精一杯の力の鳴き声を聞きながら、等間隔に果てなく続く街灯の白い光をか細く頼りつつ私は重い足どりでとぼとぼ歩いた。



ああ、腰痛ぇ。なんで俺まで猫探しを手伝っていたんだろう。まったく馬鹿馬鹿しい。しかしあの娘もしぶといよなぁ…たった猫一匹に随分と一生懸命に執念を燃やすよなぁ…。いくら可愛がっていても、逃げちゃったんだからしょうがないだろうに。おかしいよなぁ…。考えられないぜ…。



腰の辺りを擦りつつ、時折悪態混じりの独り言を呟きながら、一つの疑念を自身に抱いた。


ひょっとしたら私は冷たい人情のない人間なのだろうか?子供が困っていても、同情して手を貸すことさえ面倒くさいと感じてしまう嫌な野郎ではないのか?

いや、決してそんな事はない筈だ。

彼女と接している内にそんな不安が急に沸き起こってきたのである。



疑念を揉み消すように、私はぼんやりと自分の拙い半生を振り返っていた。

私にも子供の頃に家で可愛がっていた犬や金魚がいた。別に冷淡だった訳ではない筈だ。犬と一緒に走り歩き喜びを分かち合い、金魚も私を見るとご飯の時間と分かるのか、群れになり水面に顔を覗かせていた。それなりに愛着を持ち、それなりに、いや寧ろ自分なりに拙いながらもかなり可愛がっていた積もりではある。犬が老衰で亡くなった時も犬の亡骸を幾度となく撫で擦りながら、涙を堪えて別れを惜しんだものである。そんなに冷たい人間ではない筈だ。


だがしかし、いくら思い返してみても、彼女みたいに必死になって彼等と接した記憶は見つからなかった。


思えば殺風景な話だが、私には彼女のようにペット等の生き物の生き死にや、ましてや人間関係の絶体の場面において過去に必死とまでの執着を持った経験はなかった。そんな人間である。言うまでもなく、スポーツや勉強や趣味に夢中にしがみつくことも記憶において皆無であった。

よろずになぁなぁのまま、何らの熱意もなく、流されるような惰性でもって、ふと気が付けばこの歳までずるずると生き永らえてきたような気さえする。



人は自身に欠けている部分を無意識に認識していて、それを他者に見出だした際に、その他者に羨望や嫉妬を覚える。あるいは他者と自分との差異に、自身への不安に似た感情を抱きがちであるという。



彼女の、家出してしまった猫に対する喪失感や生存を信じて毎夜一人探し回り、必ずや助けよう探し出そうとする執念は、他人の私から客観的に見れば子供じみたむき出しの執着心の発露に過ぎない気もする。しかしある意味で、その淡々とした仕草の奥に込められたエネルギッシュな情熱や万が一の失望に対する心の保険を一切考慮せず、一途にがむしゃらに他者を想うその愛着。


若さ、と言っても足りない。無邪気、と言っても軽薄になる。そんなよくわからぬ力強さ。それが適当に生きてきて、今や疲れはてた中年に成り果てた私には馬鹿馬鹿しく疎ましく思われつつも、また心のどこかで眩しく羨ましくも思われたのだった。

いや、年をとったからではない。仮に私が子供だったとしても、私には彼女の真似はきっと出来ないだろう。

やっぱり私は冷たい、人情味のない味気ない人間なのかも知れない。少なくとも、熱い優しさのある人間ではないのかも知れない。



鈴虫やらコオロギやら数多の虫達の声に合わせるように、遠く数羽のカラスが何を嘆いているのか、ひどく切なく鳴き交わす声が繰り返し聞こえてくる。

その夜の家路は、何故だろう、いつもよりさらに遠く暗く感ぜられた。



家に帰ると相変わらず不機嫌そうな横顔をした妻が居間でテレビを見ていた。

ちょっとさ、最近、やたらと遅いよね。なんか変な遊びにハマってたりしないでしょうね?

妻の言葉には常にトゲがある。なんでこんなに無闇矢鱈とむき出しの攻撃的な言動を向けてくるのか。

昔は違った。そんな女性ではなかった。


ちょっと、聞いてんの?何とか言いなさいよ。黙ってるのは後ろめたい何かがあるからじゃあないの?



いい加減にしてくれよ…。


話しかけ方にも、もう一寸あるだろう…。妻の一言一言、まるで職場の嫌な上司みたいな詰問調の言葉の嵐に、ため息混じりにそう応じるより他に言葉が見当たらなかった。


女遊びでもしているんじゃないの?


妻が白い目で皮肉っぽく笑いながら私に突っ掛かる。ふと彼女の事が浮かんだ。猫探しの彼女も一応女ではあるが、如何せんまだ子供であるし、私は半ば無理矢理付き合わされているだけで、遊んでいる訳ではない。しかし、妻にそれをどう説明すれば納得してもらえるのだろうか?いや、何を答えてもヒステリックな金切り声で騒ぐに違いない。

結論。首を振って沈黙。

他に何も打開策が見当たらない。明日の朝も早いのだ。ここで揉めて、心身を消耗したくない。


何とか言いなさいよ。


妻の罵声に、疲れ果てて悲しくて、酒のせいだろうか少し泣きたいような気持ちすら湧いてきて、耳を塞ぎたくなるような妻の声を虚ろに丸めた背中に聞きながら、私は熱いシャワーを浴びたくて風呂場へと急いだ。



数日後。秋晴れの土曜日の午後、私はいささか重たい心と内臓をそっと擦りながら車を走らせていた。後ろの座席には例の彼女がちょこんと座り、無言でぼんやりと少し開いた窓の外を眺めている



隣町に住む人から、猫を保護しています、という連絡を貰ったとかで、私が車を出して一緒に猫を迎えに行く事となったのだ。


最初に彼女から話を聞いた時は、飲んでいたビールを噴き出してベンチからずり落ちそうになった。


冗談でしょ?なんだってそこまでしてやらなきゃならないのか。やはり子供なんて図々しいものだ。一寸甘い態度を見せればすぐにお調子に乗って、ずる賢くつけ込んでくる。まったく油断ならない生き物である。


えっと、お母さんはいないんだっけ?それじゃあお父さんに連れていって貰いなさいよ…。



あまりの話に私はぐったりと俯きながら、背後に立つ彼女に振り向き面と向かう気力もなく、やっとこさ我ながら不機嫌そうに冷たく突き放すような口調で返事をした。



大体その日はいつにも増して不機嫌な夜だったのだ。


朝から妻には極めて因縁に近い文句をゴチャゴチャ言われて、会社では会社で朝から夜まで嫌な上司に失敗を責められ怒鳴られ詰られて疲れはてていた。


そこに、まぁ年を取れば誰でも能力は落ちますから失敗も有りますよ。元気出してくださいね、等と慰められてしまった。


十以上も年下の最近有望株と専らの噂であるイケメン好青年のしかも私なんぞより遥かに有能な仕事のできる若手の後輩に、肩を擦られつつ軽くせせら笑われながら妙にひねくれた嫌み混じりの慰め等を受けて、面白くないことこの上ない散々な一日であったのだ。


まぁ今日に始まった事ではない。いつもの事ではある。いや、むしろ毎度の事でさえある。

しかし、その夜は我ながら情けないほど落ち込んでいた。

疲れと相俟って、ひどくぐったりとしてしまい、全てが虚ろで無意味に思われていた。

夜更けのベンチで果てしなく途方に暮れているところに例の彼女である。今更笑顔など作れる訳もない。私は全てを拒絶するように冷たく俯いていた。



お父さんは私も猫も嫌いなんです。猫を捨てちゃったのもお父さんなんです。嫌です。無理です。私は一人きりなんです。誰も頼る人がいないんです。


背後の彼女はやや語気を強めて、一言一言を噛み締めるように呟いた。


呟いて、また沈黙である。俯いてシュンとしょげている様子が振り向かなくとも伝わってくる。


どれ程の時間が流れただろうか。

彼女の言葉のさざ波が、私の心の脆い砂の城に染み込んできた。


ここで毅然とした態度をとれない所が、なぁなぁに生きてきた私の弱点である。やはり人間たるもの、断るべき時には断固として突っぱねるべきなのである。いい年をして私にはそれがなかなか出来ない。



乗り掛かった船か。

仕方がない。

まぁいつまでも彼女に付きまとわれても困るしなぁ…。等と自身への言い訳じみた納得する為の言葉を重ねながら、私は心を密かに決めていた。

リスクはある。名前も知らない子供、ましてや女の子を、いくら頼まれたからと言って車で連れ回すなんぞ、どう言い訳しても今日日の世間は承知しないだろう。警察にでも見付かったならば、直ちにお縄間違いなしである。


しかし、何故だろう、その夜の私は言うなれば義侠心とか仁義みたいなものに深く感応してしまったののである。

つまりは健気な彼女をどうにか助けてやりたいと、それだけを思っていたのである。



そう…。ならいいよ。

平日は仕事があるから、今度の土曜で良ければ連れていってあげるよ。疲れていていつも土曜は寝ているから、夕方からになるけれど、いいかな?先方さんにもそう伝えておいてね。


彼女がはい、はい、有難うございます。良かった、本当に有難うございますと何度も言いながら幾度となく私の背中に頭を下げてくるのが何故か伝わってきた。



隣町とはいえ、随分山間の寂れ果てた田舎集落であり、くねくね曲がり道の続く山道を登って行くにつれてすれ違う車も無いままどんどん人家も疎らになって行く。

女の子は狭い後部座席にちょこんと座ったまま無言で窓の外の森閑とした風景を眺めていた。


あ、多分ここです…。

彼女の声に車を停めると、確かに鬱蒼と繁れる木々の向こうに、まるで昔ばなしに出てきそうなこぢんまりとした大きめの小屋みたいな苔むしたような古い民家が見えた。


本当にあそこなの?

大人の私ですら、敷地に立ち入るのを躊躇われるような閑とした空気に思わず後部座席の彼女を見た。


多分…。

彼女もいざとなると緊張してしまったのか、固い面持ちのまま私に頷いた。


よし行こう。

秋の陽はもう暮れつつ、西から夕暮れの蒼い空が迫りつつある。

何者が出てくるのか。


恐る恐る二人でその古民家を訪ねると、意外に普通の主婦っぽい風体の五十くらいのむっくりしたおばさんがハイハイと笑顔を湛えながら玄関に出てきて、私は内心秘かにほっと胸を撫で下ろしたものだった。



小さな茶虎の猫は特に衰弱した様子もなかった。

彼女に会うや否や顔をくしゃくしゃにして、それこそ全身全霊で泣き叫びつつ尻尾をピンと立てて彼女に頭から体から尻尾から体全体を幾度となく擦り付けて傍目にも分かるくらいに狂喜乱舞していた。


本当に有難うございました。

一緒にお礼を言って、いい大人が何も渡さないのも失礼であるが、子供の事である。多分何も用意していないだろうと、前日の仕事帰りにそれなりの和菓子屋でまぁ無難な値段の菓子折りを念のために購入しておいたのだ。


案の定、彼女はお礼を言って猫を抱き上げてもう夢中でそのまま帰ろうとしている。

まだまだガキだな…。付き合ってここまで来た以上仕方ない。

私は痛い懐事情もあって無邪気に喜ぶ彼女と猫を苦々しく横目に見つめながら、つまらないものですが…等と表面はこれ以上ない笑顔を取り繕い、何とか私が買っておいた例の無難な菓子折りを先方に受け取っていただき、そそくさと帰路についた。

彼女は後ろの席で、これまでに見た事のない穏やかな表情をしている。

安堵しきってゴロゴロと喉を鳴らしている猫を膝に乗せて、すっかり落ち着いた優しい微笑みをその日焼けした顔に湛えている。


これで良かった。私はそんなに冷たい人間ではない。


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