39.「文月朱夏」
──その頃。
希夢の前では、拳銃の引き金を引くことを躊躇う天塚の姿があった。
保身のため、何の恨みもない希夢の命を奪うことへの抵抗が、指に力を加えるのを妨げたのだ。
その様子にイライラしたミトは、容赦ない言葉で発破をかける。
「おいっ、なにやってんだ、このクソ犬が! さっさとやれ! お前が先に死にたいのか? 社会的にズタボロにされて──」
これ以上ないほど過去の不徳を後悔した天塚は「許してくれ、ヒメちゃん……!」と呟き、ついに右手の人差し指に力を込めた。
その瞬間──。
室内に、激しく眩い閃光が走った。
あまりの眩さに、三人は目の裏が真っ白になり言葉を失う──。
数秒後、ゆっくりと目を開けた希夢は、前方に何者かの背中をとらえた。
視界はぼんやりとしていたが、長い黒髪をかすかになびかせ「見慣れぬ装束」を身にまとっているように見えた。
「……よう、お前が呼び出してくれねえから、ルール違反してこっちから出てきちまったぜ──」
そう言って、希夢の方に振り向いたのは紅玉だった。
紅玉は、ララフィートのワンピースを着た希夢の姿に穏やかな笑顔を見せる。
「……着てくれたんだな、その服。よく似合ってるじゃねえか。なけなしのバイト代をはたいて買ってよかったぜ」
「えっ……?」
突如として現れた「謎の者」の言葉に、希夢は意味が理解できずに困惑する。
「な、なんだ、お前……? どこから出てきたっ?」
そう問う天塚に、「さあな」と紅玉は笑う。
「だ、誰だか知らんが、この現場を見た以上はお前も消えてもらうぞ!」
「消す……? 面白え、やってみろよ」
天塚の方に振り返った紅玉は、ジリッと足先を動かした。すると、恐怖に駆られた天塚は「ひっ……!」と一気に拳銃の引き金を引いた。
バアアアンッッッ──!
放たれた銃弾は、紅玉の胸を目がけて一直線に飛んでいく。しかし、その銃弾は紅玉の胸の前でピタリと止まったのである。
「なっっっ……⁉︎」
目を疑った天塚は、立て続けに銃の引き金を引く。
バアアアンッッッ──!
バアアアンッッッ──!
だが、何発放とうとも、そのすべてが紅玉の胸の前でピタリと止まるのだった。
あっと言う間に銃弾が使い果たされると「な、なんで……」と天塚は震えた。
「……どうした? その頼りになるオモチャでアタシを消すんじゃなかったのか?」
紅玉がそう笑うと、銃弾はパラパラと床に落ちていった。
あり得ない光景に、ミトは天塚の腕にしがみつく。
「安心しろ、ミト。怖がらなくてもアタシはもうじき消える。天塚と共に、てめえを消したあとでな」
「っ──⁉︎ な、なんで、私の名前を……」
怯えるミトは腰がくだけると、天塚もろとも床にへたり込んで呆然と訊いた。
「な、なんなの、あんた……?」
「アタシ? アタシは……」
その正体に希夢も後方で固唾を呑む中、紅玉は凛として答えた。
「アタシは、泣く子も黙る天下無双の最強式神……
『文月朱夏』だ──!」
その名を聞いた瞬間、希夢の中でなにかがハジけるような衝撃が走った。
「ふ、文月、朱夏っ……⁉︎」
そう言ってワンピースを見やった希夢の脳裏には、紅玉からの手紙に書かれていた「文月朱夏」の文字が、くっきりと浮かび上がる──。
「あ、あなたが……?」
目を丸くする希夢に、紅玉は背を向けたまま語りかける。
「希夢……アイドルとして、みんなの姫になるっていう夢も悪くねえ。でも、お前は『とっておきの大切なヤツ』だけの姫になった方が、きっとお前らしく輝ける気がする。……こんなヤツらに邪魔されずにな」
「っ──! ど、どうして、それを……」
上京後は「誰にも打ち明けてないはず」の話を知る「謎の者」に、希夢の思考回路はショートする。
「あと、最初はクソみてえなメイド修行に絶望しかなかったけど、今はそれに感謝してる。……なんせ、そのおかげで『最初で最後の親友』に出逢えたんだからな──」
希夢を「親友」と形容した紅玉は、その理由を静かに明かしていく。
「やっとわかった気がするんだ。なんで誰にもなつかない尖った一匹狼の自分が、こんなに誰かのことを想うほど丸くなっちまったのか……って。それは希夢、お前のせいなんだぜ?」
「えっ……?」
キョトンとする希夢に、紅玉はクスッと笑いながら続ける。
「アタシさ、こんな性格のうえに、式神として最強の力を持って生まれちまったから、力にモノを言わせて思うがままに生きてきたんだ。……でも、そこに充実感なんて一切なくて、ただ周りから煙たがられる空虚な存在にすぎなかった。それが、今回の修行で思い通りにいかない日々に身を置かされて気づいたんだよ。どんなにもがこうとも、悪態をつこうとも、ありのままの自分を認めてくれる誰かがいるって、なんか……悪くねえなって──」
紅玉はしみじみと話すが、希夢にとっては脈絡のない話でしかない。
希夢は戸惑いを隠せないが、その姿すら愛おしく思えるほど紅玉は穏やかだった。
「覚えてねえだろうけど、希夢はアタシの正体が『ならず者の式神』であることを知っても『出逢った時からのアタシがすべて』だと言って、イタズラに過去に目を向けるようなことをしなかった。そして、『今』のアタシだけを見て必要としてくれた……お前がそんなことしてくれたおかげで、アタシはいつの間にか『血の通った感情』を持つようになって、心地よい温かさにすっかり牙を抜かれちまってた──」
どう考えても「初対面」であるはずの「文月朱夏」が語る内容に、希夢は混乱を免れない。記憶を隅々まで探っても、消された記憶は見つかるはずもないのだ。
「それに、お前はアタシのことを『好き』だって言ってくれた……そんなこと言われたの初めてだったからさ、あの時は小っ恥ずかしくて上手く言えなかったんだけど、本当は──」
紅玉は再び希夢の方に振り返った。そして、初めて見せる心からの笑顔で言った。
「本当はさ、嬉しかったんだぜ、あれ──!」
そう言うと、紅玉は赤いリボン付きの髪ゴムを外し、希夢の手元に投げ渡した。
「せっかく希夢に買ってもらったんだけど、アタシはもう使えなくなっちまう……だから、代わりに預かっておいてくれ」
「か、買った? これを、私が、あなたに……?」
希夢は手元の髪ゴムを見つめたが、身に覚えのない話でしかない。
しかし、髪ゴムを見れば見るほど「なにか」がグルグルと頭の中を駆け巡り、思わず右手で髪の毛をグシャッと握った。
「希夢……これからもお前らしく、強く、優しく、誠実に生きろ。アタシは今からこいつらを片付けたら消えていなくなっちまう……でも、もし式神にも『あの世』なんて世界があるとしたら、その時は、ずっと、そこからお前を見守っててやるぜ──」
消えていなくなる、というフレーズに「いや……」と希夢は反応した。
その理由は自分でもわからなかった。
だが、得体の知れぬ哀しみが刹那に心の中へと押し寄せたのである。
「さあ、それじゃあ、そろそろコイツらの屍を土産に、冥土の世界に行くとするか……」
そう言った紅玉は、恐怖に慄くミトと天塚にゆっくりと右手をかざした。すると、紅玉の目の前に等身大の五芒星が現れ、その中央に炎のように揺らめく紅い光が輝き出した。
「……あばよ、希夢。元気でな──」
「い、いや、やめて、いかないで──!」
希夢は押し寄せた哀しみの正体もわからないまま、本能でそう叫んだ。
まるで記憶が戻ったかのような一言に、紅玉は胸が「ドクンッ……」と鳴った。
そして、感極まるように微笑えむと、鋭い目をミトと天塚に向け、ついに式神の力を解放したのである。
「はあぁぁぁぁぁっっっっっ──!」
放たれた、紅蓮の光──。
それはまるで、真夏の太陽が目の前に現れたようだった。