#3 桃の切り方
爺さん――ふくちよ
野良猫――ことと
とんかつ屋(隣人)――勝ち組とんかつ
かかりつけ医――C.Makoto
桃を担いで家に帰ったふくちよ爺さんは、はて、と困っていました。まず、自分の服を大半川に流してしまったので、着替えが旅行先で買った虹色の股引ぐらいしかないこと。そして、意外に桃が場所をとること。
爺さんの家は絵にかいたような狭小住宅で、あまり余分のスペースがないのです。下手に庭を作ってしまったため、建屋は平屋の1LDKという二人で住むにしてもギリギリな間取りでした。
「はてはて……勢いで持って帰ってきてしまったものの……僕、別に桃が好きってわけでもないしなぁ……寄る年波に食欲も減退してて、あんまりたくさんも食べられないから……剝いたその日にちょっとつまんでも……夏真っ盛りだし……冷蔵庫には入らないし……あとは腐っちゃうよなぁ……」
爺さんはとりあえず服を着替え、裸にレインボウ股引という出で立ちになりました。
「ああ……ひどいなこれ……町内会ではおしゃれ通で通ってるのになぁ……」
Q婆さんより、衣類を失ったことが裸の頭皮に堪えました。縁側で爺さんが頭を抱えていると、家にしばしば遊びにくる野良猫がいつの間にか傍でくつろいでいました。
「おお……コトニャン」
爺さんはこの猫を「コトニャン」と呼んでいました。多くない残量の髪の毛を、隙あらばむしっていくので、ふくちよ爺さんはこの猫のことが少し苦手でした。
「僕はこれからどうしたらいいんだろうなぁ……ねえ、コトニャン」
爺さんは猫にしゃべりかけました。もちろん何の返事もありません。
「婆さんは今頃仄暗い水の底だろうし……大きな桃が居間を牛耳ってるし……ねえ、コトニャン」
「ちわ!」
唐突に大きな声が庭に響きました。
「うわっ! びっくりした! なんだトンカツさんか。驚かさないでよ……心臓止まるかと思ったよ……」
「え? まだ止まってなかったんすか? そろそろ保険金目当てでQ婆さんに殺されてる頃かなと思ったんで様子見に来たんすけど」
「肌が粟立つほどの千里眼だよトンカツさん」
爺さんがトンカツさんと呼んだのは、隣に住む定食屋『勝ち組とんかつ』の主でした。「トンカツ一筋2年半」という微妙なキャッチコピーが売りで、Q婆さんは前を通るたび「2年半て! そらボカコレではルーキィから外れるかもしれへんけど! 2年半て!」とつぶやいていました。
「え? ほんと? アタリなんすか? じゃあ、そのストレッチマンを何歩か進めた変態衣装も今回の事件と何か関係が? 私ほんとは回覧板持ってきただけなんすけど、すごい現場にきちゃったわけすか?」
「そうだねぇ……僕も正直、今からどうしていけばいいのか全然わかんないから色々説明するよ……」
ふくちよ爺さんはトンカツに事情を説明しました。寝ているかに思われたコトニャンは、爺さんがトンカツに説明するため自分から注意をそらした瞬間、霞のようにやおら立ち上がり、後頭部の毛をそっと抜きました。爺さんの髪、残り一万五千本余り。
「……なるほど。ふくちよさんはQ婆さんと衣服一式を失い、桃を手に入れたってわけか……」
「……得失で考えるとそういうことか……どういう取引だよまったく……」
「でもまあー等価交換じゃないすかね? Qさんがマイナス300ぐらいの価値で、ふくちよさんの趣味の悪い服がマイナス100。桃がプラス400ぐらいすからね。いや、これだけ大きいんだ。プラス420はあるかな。あ、じゃあ20ポイント得してるすよ。よかったじゃないすか」
「単位がよくわからないな……それを得るとどうなるの?」
「ところで」
トンカツは爺さんの話を無視して続けました。
「私、桃好きなんすよ。せっかくだから一緒に食べませんか? どうせふくちよさんは寄る年波に食欲が減退してて、数口食べたらあと腐らせちゃうでしょ? 冷蔵庫にも入らないし」
「トンカツさん……あんたこの小説読んでから来てるのかい?」
ふくちよ爺さんは、トンカツの強引な提案に負け、今すぐ桃を食べることにしました。すでに一部がふやふやでケトン体のヤバい臭いが立ち上っていたことも爺さんの決定を後押ししました。
「そこの野良猫も来いよ。一緒に食おうぜ」
「にゃーん」
コトニャンはここぞとばかりに可愛い声を出し、餌にありつこうとしているようです。
「なんだか現金な猫だよほんと……そういやQさんが可愛がってたからなぁ……飼い主に似るというやつかもなぁ……」
爺さんは、死んだ意地汚い老婆の思い出を猫に重ねました。
「あ、そうだ! 私、いいもの持ってんすよ。ちょっと包丁と一緒に取ってきます!」
トンカツは風のように去り、40秒で戻ってきました。
「これこれ!」
「ん? なんだこりゃ?」
トンカツが差し出したのはレトロなおもちゃでした。
「バウリンガルっす。動物の気持ちがわかるんすよ。安かったんで、こないだ蚤の市で買ってみたんすよ。でも、なんかちょっと魔改造してるっぽいんすよね。せっかくだからこの猫にためしてみましょうよ」
「ふーん……。なんの期待もしてないけど、せっかくだからやってみよっか」
爺さんがスイッチを入れ「これでいいのかな? こんなおもちゃでどの程度理解しあえるもんだかね? ははは」というと、バウリンガルから「にゃんにゃんにゃかにゃん」と合成音声が流れだしました。先ほどまでぼんやりうつろな目をしていたコトニャンが、驚いたように目を見開き「にゃんたま」と鳴くと、バウリンガルが「あんた……喋れるのかい? すごい世の中になったもんだね……というかこの爺さんが取り残されてただけなのかもね……しかし、これで少しはやりやすくなったかもれないね……ふっ」とおおよそ文字数に合わないセリフを流しました。
「こ、これは……! すごい! 意思疎通できてるじゃないか!」
爺さんは驚きのあまり、ほんの少し漏らしましたが、本人ですら気付きませんでした。
「まじすか! おおー便利便利! じゃ、改めて一緒に食べようぜ野良猫」
「アタイはコトニャンだ。奇遇にもこの爺さんがつけた名前と同じだ」
「そっかそっか! コトニャンな! なんかもうバウリンガルが逐次翻訳してるっていうか、直接しゃべってる感じになってるけど、私は細かいことは気にしないし、作者も細かい人間じゃないからこれで動物とコミュニケーションができる理由づけにするつもりだし! ところで早速切るぜ!」
切るといいながら、トンカツは丁寧に皮を剝き始めました。
「桃をいきなり真っ二つにするやつなんていねえってーの。子供のおもちゃでよくある、包丁で真っ二つに切れる食べ物セットじゃないんだからよー」
誰に言うでもなく彼はつぶやきました。
皮を剥き終わると、爺さんとコトニャンに号令をかけました。
「さあ! 皮は全部剥いた! めんどくさいから全員かじりつけー!」
コトニャンは猛ダッシュして顔を桃の果肉にうずめました。トンカツも園芸シャベルを持って「一度こんな豪快に桃を食べてみたかったんだよなぁ!」と言いながらファーストバイトのように全開でほおばり続けます。
ふくちよ爺さんはティースプーンでしずしずと桃を食べています。
三人が巨大桃の攻略を始めて半時間後、桃に突き刺さり、下半身だけ外部に露出しているコトニャンが叫びました。
「おい! あんたら! 何かが中心にあるよ!」
「そりゃ種じゃねえの?」
「違う! そんなもんじゃない! まるで……そう……人間だ! 人間の赤ん坊だよ! 生きてる! 息をしてる! でも低酸素状態に似た相貌になってるよ! 実物は見たことないけどブラックジャックで見たことがある! 危険だ! あんたら、このままじゃこの子死んでしまうよ!」
桃に顔を突っ込んでいるため、もごもごと不明瞭にしか聞こえませんでしたが、爺さんとトンカツは同時に「なんだって?!」と驚きました。
「ふくちよさん! 急いで食べるっすよ!」
「え?! 掘り出して今すぐ助けようよ!」
「もったいないでしょうが! 今目の前にある桃と見知らぬ他人の嬰児! あんたどっちをとるんだよ! どっちもとりたいなら急いで食べろよ! それしか方法はないだろうよ! やっと見つけた細い細い解決策なんだよ! 他の方法があるなら私だってリスクを取らずに助けたいんだよ!」
「え……あ、はい」
ふくちよ爺さんは、なんで僕の周りは飛んでる人間ばっかりなんだろう? と思いながら、一生懸命食べました。のどが焼き切れそうなぐらい桃を飲み込みました。腹が裂けそうなぐらい桃を押し込みました。そして、ようやく赤ん坊のところまでたどり着きました。
「よかった! まだ生きてる!」
「よし! ふくちよさんはその子を病院に! 私とコトニャンは桃を始末するっす!」
「わかった! そんなことになりそうな気がしてたから特にツッコまないよ!」
爺さんは赤ん坊を抱いて急いで町を駆け抜けました。かかりつけ医のMakotoに「わけは聞かず、とにかく診てほしい!」と拝み倒しました。
「大丈夫。健康だよ。全然問題ない。元気な女の子だ。心は飲み屋街の裏路地のように汚いけれど、顔だけはキレイだったQ婆さんによく似てるよ」
「よかった……最後の不安になる一文以外は……」
ふくちよ爺さんは待合室にへたりこみました。
「ところで……ふくちよさん……あんたなんでそんな恰好してるんだい? 家からここまでそれで公道歩いてきたの?」
「え?」
部屋の隅にある鏡の中に、べたべたとした液体にまみれ、股間のところが少し濃く濡れ、虹色の股引だけを着けた老いた裸の男が力なく座っているのが見えました。
続く。