#2 大いなる死
婆さん――小豆沢Q
爺さん――ふくちよ
湊川は太陽にきらめき、美しくも眩しい光彩をQ婆さんの汚れた瞳に投げつけていました。
「クソッ! 太陽は上から! 湊川は反射して下から! ジジイの頭も反射して横から! 全方位眩しいやんけ! 日サロか! 今時分ガングロや流行らんちゅうねん!」
後ろでぶつぶつと悪態をつき続ける婆さんを見て、ふくちよ爺さんは、なんで僕こんな人と結婚したんだろう? としみじみ思いました。
河原に洗濯物を下すと、川で洗濯物なんかしたことがないはずの婆さんが「ええか? あっこや、あっこ。あのちょっと急激に深くなってる手前。あっこはよぅ洗えんねん。川の流れと地形がシンデレラフィットしててな、うまい具合にキャビテーション起こんねん。あれや。メガネ屋に行ったらブイーン言うて洗う機械あるやんか。つまりはあれや。あれが起こる奇跡の場所やねん」と職人のようなことを言い出しました。
「でも……あそこ本当に深そうだなぁ……。流れも速いし……」
「せやからええんやろが! ぬはは! ……えーと。つまり……せやから、洗濯するんに、洗濯物するんにええんや!」
「うーん……」
悩む爺さんを見て婆さんは優しく声をかけました。
「ふくちよ爺さん……いや、ジジイ」
「なんか余計に遠い関係になってない?」
「そんなんええねん。うちら他人ちゃうやろ? 保険金の受取相手にするぐらいめっちゃ夫婦やんか」
「なにその例え……ちょっとやだなぁ」
「うん。そう。例え例え。そこ、わざわざ気にしーひんときや。とにかく、久しぶりにジジイのカッコええとこみたいねん。川の深みも死も恐れず洗濯物をする勇者をな……」
「縁起悪いなぁ……」
「だああああああ! ごちゃごちゃ言うてへんと、さっさと行ってこいや! 深みにでも天国にでものぅ! 大体ほとんどがお前の洗濯物や! ワタシは自分のは毎回クリーニング出してんねん! 雑巾とウンコ踏んだ靴下ぐらいしか家で洗てへんわ!」
Q婆さんの優しさは、カラータイマーもびっくり、会話数往復分しか続きません。
「わかったよ……ああ、怖いなぁ」
ふくちよ爺さんが恐る恐る川の深み近くで洗濯を始めると、上流から何かが流れてくるのが見えました。
「……ん? ねえQさん。あれ、なんだろう?」
そのとき、婆さんはすでに爺さんの背後に忍び寄っていました。
「なんやろうなぁ……ふふふ。なんでもええけど……それがこの世でお前の見る最後の物体になるんや!」
婆さんは渾身の力をこめてふくちよ爺さんの背中を押しました。
「うわああ!」
爺さんはバランスを崩し、深みに片足をとられ、そのまま川に転落しました。
湊川は速く、重く、爺さんの身体を押し流しました。
なんとか水面に顔を出すと、すでに何メートルも岸から離れています。
「おらあ!」
ジョースター家のような婆さんの気合いの声とともに、爺さんに洗濯物が投げつけられました。濡れた衣服で身動きがとれず、水中にいる時間のほうが多くなってきました。
ダメだ……でももういいか……今後生きててもロクなことがなさそうだし……。
ふくちよ爺さんが命を手放そうとしたとき、体に何か大きなものが当たりました。爺さんは最後の力を振り絞って、それにしがみつきました。
桃でした。救命浮輪のように絶妙に抱えやすいサイズの桃でした。
「な、なにぃ!」
岸で婆さんが、死亡フラグが立った悪役のような顔をして、死亡フラグが立った悪役のようなセリフを吐きました。
「た、助かった……」
爺さんは桃を抱え、体に洗濯物を巻き付けたままどんぶらこどんぶらこと下流に流れていきました。
「させるかぁ!」
婆さんが鬼の形相で河原を駆けてきます。マスターズに出れば入賞間違いなしの速度で桃と爺さんに近づいてきました。川幅も狭くなってきて、数メートルの距離に迫りました。
「ここで息の根をとめな……とめなあかんのや! 違法賭博の掛け金、あんたの口座から勝手に送金したけど、全然足りひんねん! 数億ぐらい持っとけボケェ! この鉄火場乗り切るためにはあんたの保険金が必要なんやぁー!」
婆さんがインターハイでも入賞間違いなしの跳躍を見せ、爺さんの背中にとびかかりました。桃はバランスを崩し、上下左右に大きく揺れました。
「はっはっはぁ! 観念せえや!」
婆さんが背後から爺さんにチョークを決めようとした瞬間――
「く、くっさぁ!」
婆さんは思わず手を放し、激流に飲み込まれ、あっという間に見えなくなりました。
「い、いったい何が……ん?」
ふくちよ爺さんは、Q婆さんの情けない最後の言葉のとおり、何かが臭うことに気づきました。頭に手をやると、靴下が乗っかっていました。見ると褐色に汚れていました。
「ああ……これがQさんの言ってたウンコを踏んだ靴下……。Qさんは僕の首を絞めようとしてこの靴下に顔から突っ込んだってわけか……」
爺さんはどんぶらりんぐしながらしばらく放心しました。そして、思いました。
「……ウンコの話……本当だったんだなぁ……」
自分の衣服がウンコと一緒に洗濯されていたことを思うと、Q婆さんが死んだというのに、どうにも悲しいという気持ちが湧きおこりませんでした。
流れが落ち着いたトロで爺さんは河原に上がり、自分を守ってくれた桃を家に持って帰ることにしました。
続く。