三日目 さようなら、私の日常 その3
少年の言葉を信じるならば、お節介な同居人は学校に帰ったということだろう。私は行きと同じく全速力で車通りの無い車道を駆ける。正確には坂なので駆け下りている。行きはキツイが帰りはそれ程でもない。すぐに戻れるだろう。
「はぁはぁ、つ、着いた…………」
恐らく今年で一番の体力消費だっただろう。軽く十キロ近く走っている。到底内に引き籠る箱入り娘が走っていい距離ではない。私は流石に心臓の鼓動が収まるまで立ち止まった。その間も視線を動かし、傍迷惑な親友の姿を探す。
校舎は森のように閑散としている。聞こえる途切れ途切れの音は、チョークを黒板に擦る音だろう。礼儀を重んじるお嬢様達は授業中に私語などしない。グラウンドもこの時間は使われていない。都会の喧騒に隠れて、この空間だけが奇妙な静寂に包まれている気がした。
耳に響き続けていた心臓の音が納まるのが分かると、風香は歩き出した。
この時間、下手に動くと教員に見つかり捕まってしまうだろう。何せ、欠席の連絡などしていないため、絶賛私は行方不明というわけなのだから。
そう考えた少女がまず寮に戻って制服に着替えた。流石にこんな格好で歩くのは恥ずかしくなってきたからだ。そうして向かったのは、件の空き教室だった。他の教室はほとんど使われているため、消去法という安直な決断だが、それが数ある教室の中で正解だった事実をこの後、風香は知ることになる。
ガラリと音を立てて扉を開けた。
校舎の一階の端に存在するこの空き教室は、今年度から隣接する教室での授業が無くなっている。そして、その事実を風香は知っている。勢い良く扉を開けたのもそのことを承知しているからだ。魔術の練習を学校でする以上は最低限のリスク管理はしっかりとしなければならない。それは、魔術師として生きる人間の義務である。
伽藍洞。
見渡す限り何もない。いつの間にか机と椅子も取っ払われている。恐らく職員会議でこの教室を今後どのように使っていくかを取り決めたのだろう。つまり、ここでコソコソと魔術の練習をすることはもうできなくなったということだ。
少女は無意識のうちに唇を嚙んだ。
そんな他愛ない事を考えていた為なのか、風香は教室の中央に置かれたモノにすぐさま反応することが出来なかった。
「鞄」
鞄だった。掃除が行き届いていない不衛生な床に、素朴な紺色のスクールバッグが教室の中央に一つだけ置かれている。可愛らしい大きめのバッグチャームが付けられていた。真っ白な花。一見すると百合の花だが、実は違う。その正体を風香は知っている。
風香は目を見張った。だって、その蜜柑の花を模ったバッグチャームは私が同居人に彼女に渡したものだったから。
ゆっくりと首を回して、再び教室を見渡す。目的の少女は居ない。教室には、やはり無造作に置かれた鞄以外には何もない。
「でも、ここに鞄があるってことは、帰ってくるのよね」
なら、ここで待とう。鞄がここにある以上、そう遠くには行っていない筈だ。ここで帰りを待てば、いつかは、雅乃と出会えるはずだ。何時間でも、何日でも、何年でも待とう。
【かえってこないよ】
背中から耳打ちする声。
ずきん。ずきん。
脳が張り裂ける音と共に、身体の肉と肉の間から誰かがこちらを覗いているような感覚が巡る。
「あぁっ…………!!」
痛い。痛い。痛い。痛い。声が聞こえる。痛い。痛い。夢の中の声が。痛い。
あまりの痛さに少女は横たわり髪を掻き毟る。ポツリと涙が零れた。滂沱の涙が堰を切ったように溢れる。脳と眼球を繋ぐ線が断裂しそうだ。落ち着いた筈の拍動も思い出したかのように加速する。その鼓動が全身に響くたびに私は悶絶した。
「な、に」
痛みはものの数秒で鎮火された。さっきまでの苦悶が噓のように、脳も眼も正常だ。荒れた呼吸と心拍音が、さっきの症状が一過性のものであること主張していた。
「なに? どうしちゃったの雅乃も私も…………」
頭を抱えて、ヨロリと揺らめく。噴出した冷汗が背中を濡らす。朦朧とし始めた意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
【始まる】
言い争う声? 叫び声のような怒号。ノイズのような音。チャンネルを切り替え続けるテレビのよう。それが終末を知らせる鐘の音だと風香は気付くことはできなかった。あの少年の言う通り全ては手遅れだった。
「雅乃?」
途端に、破裂しそうな程の爆音が校舎を揺らした。
「一体何なのっ!?」
テロリストでも乗り込んで来たのか。確かにここは将来的に国の中枢を担う者であろう人物たちが山ほど居る。けれど、何処からか漂う久しい感覚に風香はこれがテロリストなんて軟な者じゃないと気が付いた。
肌に触れる風。癪に障る空気。原初の渦。この感覚は彼女に、一年前の記憶を想起させた。
「まさか、魔術…………!? こんな大規模な?」
慌てて教室の外に飛び出す。爆音はこの教室の真反対から聞こえた。
遮る物の無い一本の廊下。気が付けば風香は駆け出していた。
嫌な予感が、既に通り過ぎていってしまった、そんな感覚があったから。
窓ガラスはバラバラに割れている。校舎は罅だらけで、軋みを立てている。
血が天井から垂れている。誰のモノか分からない■片が転がっている。
関係ない。全て、関係ない。私が探しているのはただ一人だ。
途中で欠損した人■が横たわっている。邪魔になるので、踏みつけた。
途中で■の剝がれた人間が歩いてきた。鳴き声をあげている。
途中で脚を掴まれた。何か声を上げているが、全く何を言っているのか分からない。振り払った。
そうして、少女は廊下の端まで辿り着いた。そこには割れたガラス片を下に敷いて横たわり、真っ赤な血を絶えず流しているその姿があった。
「あぁ、やっと見つけた。雅乃」