9 冬
そして12月は、当たり前のように訪れた。
家の者たちは何かするたびに、そこにない何かを探すようになっている。
もしやぽろりと隙間から、銀色の針が出てきはしまいかと、そういう動きを無意識にしている。
「奥様」
「はい」
「満月は来週です」
夕飯の席。コニーが追い詰められたような顔で、オリヴィアを見ている。
最近クラースは目に見えて食欲が落ちている。頬がこけてしまったようで、オリヴィアは心配だ。
「予定通りではございませんか」
オリヴィアは微笑んだ。思ったより短かったな、と、オリヴィアはこの屋敷に来てからの日々を回想した。
皆、笑わなくなってしまった。こんなふうに罪悪感を植え付ける気はなかったのにと、それだけが心残りだ。
「……屋敷を燃やそう」
ぽつりとクラースが言った。
「それをするならどうかその前に、私を殺していただけますか旦那様。この屋敷と蔵書がどれほど重要なものか、ご存知ないはずはございません。持ち出しのできぬほど古い紙が無数にあることも。いくら貴方様がこの屋敷の旦那様であろうと、私の目の黒いうちは、絶対にそんな真似はさせません。ここは貴方様の屋敷ではない。オールステットの屋敷でございます」
トビアスが静かに、だがしかし揺るぎなく言った。クラースが黙り込む。
「……針はどこにあるんだ」
「探さなくて結構ですわ。わたくし、報酬がいただきたいの」
「……死んでもか」
「ええ。死んでも。クラース様がわたくしを愛してくださればの話ですが」
「……愛してない」
「来週わかることです」
「……」
静かに食後の茶を飲んでいたコニーが、ティーカップを置いた。
「……先週、我が屋敷に来客がございました」
「コニー!」
トビアスが雷のように叫ぶ。コニーは動じない。
「金貨47枚を持って。残りの3枚は必ず返すからと。どうか娘が望むならば、その身を返してもらえないかと、床に額を擦り付けて必死で頼み込む女性が。あの子のお金のおかげで買えた薬と食べ物で、ようやく元気になったからと。商社時代の知り合いの家に親子ともども住み込みで、働けるようになったからと。勝手は承知している。でもどうか、どうかと」
「……」
オリヴィアの手は止まっている。
どうか。どうか。あの美しい母が。あの誇り高い母が。
コニーが静かに、オリヴィアを見据えた。
「あなたの家族はあなたが思うほど弱くない。金貨50枚よりも、娘の命をお望みだ」
「……」
家を出る前、最後に見た母のやつれた顔が脳裏をよぎる。
ここまで歩いて来られるほど。働けるほど、元気になったのだ。
よかった。よかった。本当によかった。オリヴィアのやったことに、オリヴィアに、意味はあった。
「……」
「探しませんか、残りの期間、カミラの針を。当然今更契約を反故にする気はありません。あなたにはきっちり、12月の満月の夜までここにいていただきます。それで前金分の仕事は果たしていただいた。成功報酬を諦めませんかオリヴィアさん。あなたのご家族は誰も、それを望んでいない」
「……」
ぽろぽろとカップに涙が落ちる。
何の涙だろう。覚悟はしていたはずだ。死んでも、家族にお金をと。
今更なんだろう。どうして嬉しいのだろう。誰かに、生きて欲しいと望まれることが、こんなにも。
涙を拭いながら、オリヴィアは顔を上げた。
「でも、散々にお探しになったのでしょう? 庭の土まで総入れ替えして」
「はい」
「当然当時の記録、一覧のようなものを、残しておいでですね」
「はい。オールステットでございますので」
「拝見できますか?」
トビアスとコニーが目を合わせて頷く。
「忌々しいからと奥に置いてありますので、探してまいります」
「ありがとう」
二人が立ち上がり、部屋を去った。
「……探してくれるのかい?」
「ええ。でも奇跡でも起きない限り、難しいとはわかっております」
沈黙。
「ねえ、クラース」
「なんだい」
「わたくしの話をしてもいいかしら」
「……もちろん。ソファに座ろうか」
窓際のソファに、二人横並びで座る。
「……わたくしの家。アシェル家に引き取られる前のわたくしの生家は、ボロボロの暗くて狭い貸屋だったわ。家の中はいつもお酒と、何かの腐ったものの匂いがした。父が怒鳴っていて、母が酔っ払っていて。わたしはめったに、ごはんをもらえなかった」
「……」
オリヴィアが押し込めていた、それでも消すことのできなかった記憶。
「ろくに働きもしない、あっちこっちからお金を借りて、返さない、卑しい人たちがわたしの実の親だった。なんとか働かずにお金を稼げないかと考えたあの人達は、ある日名案を思いついたの。『娘を金持ちの馬車に轢かせて、金をもらおう』って」
「……」
金持ちそうな馬車の前に、彼らの手は躊躇なく幼い娘の痩せた背を押し出した。
「うまくやらなければまた、3日飯抜きだと言われて。こわかったけど、わたし、とてもお腹が減っていたの」
迫りくる馬車に足はすくみ、ぶつかる前にオリヴィアは転んだ。
馬車が止まり、立派な男性が現れオリヴィアを抱き上げた。
両親が飛び出してわめく。おいあんた、うちの娘に何をしてくれたのだと。
紳士はじっと、唾を飛ばす両親を見据えた。腕の中で蒼白になって怯え震える少女を見た。
抱き上げた子の骨のように痩せた体、両親の酒に濁った目、そこに宿る卑しさに、彼は事情を察したのだろう。金の入った袋を見せ、この金でこの子を私に売らないかと言った。
下卑た目で笑い、ああ、そういうことならと上機嫌で父は言った。大事な娘なので、もう少し色を付けてくれませんかと。へらへらと。オリヴィアの背を押した手を揉み合わせて。
数枚足された袋を受け取り、親だった者たちは去った。
馬車に乗せられ、揺れながら、オリヴィアは、自分はどこに行くのだろうと思っていた。
どこでもいい。オリヴィアはもう、疲れてしまった。
オリヴィアを迎えた母は最初、戸惑っていた。当然だ。出かけた夫が相談もなく、小さな女の子を連れ帰ってきたのだから。
湯に入れられた。あたたかな湯を使って体を洗うという贅沢に、オリヴィアは驚いた。
オリヴィアの体を撫でながら洗った母は泣いた。オリヴィアの小さな体に浮き出た骨を、その手は何度も優しく、柔らかく撫でた。
食べ物とは味のない固いパンだけだと思っていたオリヴィアの前に置かれた、数々の温かなもの。やわらかい、いろんな味の食べ物がこの世にあることを知った。
この人達もいつか自分を馬車の前に突き飛ばすのだろうかと思っていたオリヴィアに、清潔であたたかな布団、美しい絵の書かれた本を読み上げてくれる優しい声。初めて見るような色の服、守ってくれる大きな手のひらが、当たり前のように与えられた。
「幸福だった。本当に」
「……」
彼らには子どもがいなかった。初めて受ける愛を少しずつ、やがて胸いっぱいに吸い込んで、オリヴィアは育った。
「ある日、母が言ったの。『オリヴィア、弟か妹ができるのよ』。……あれほどの恐怖はなかった」
「……」
「きっと自分は追い出される。だって本当の子じゃないのだもの。どんなに勉強したって、身だしなみを整えたって、何が上手になったって、本当の子には何をしたって敵いっこない。どうしよう、どうしようと思ったわ。生まれるな、生まれるなって思った。長年子供のできなかった両親がどれほどそれを待ちわびているか知っていながら、母のだんだん大きくなるおなかを見ながらわたしは思っていたの。どうかお願いだから、生まれないで。……お前なんか死んでしまえと」
弟は生まれた。
産声の響くなか、怖くて顔を上げられなかった。無価値の石ころを見るような目が4つ、そこにあるような気がして。
「『オリヴィア、お前の弟だよ』と父が言ったわ。いつもと変わらない、優しい声で」
触れてごらんと言うのでその小さな手のひらの前に指を出した。
きゅっ、と、それはオリヴィアの指を必死に握った。
「死ねと呪ったわたしを、弟は許してくれた。そう思ったわ。そのときに決めたの。わたしはこの子を守ろうって。いいお姉さんになろうって。いつかこの人たちの役に立とう。自慢の娘、頼れるお姉さんになろうって」
容姿を磨き、勉学に励み、作法を身につけひとつでも多くの言語を理解しようと、必死だった。
「だから来週、もしわたしが死んでも、あまり気にしないでクラース。わたしはアシェルの名を名乗るために表面だけを取り繕った、生まれの卑しいただの贋作。作りものの表面を取り去れば、中身は銅貨一枚の価値もない、路上に転がる薄汚いただのごみなのだから」
「……」
「わたしね、いつだって頭の中でお金の音がするの。今日食べさせてもらったご飯で銀貨が何枚かかった。お稽古事で一回いくら。今日はお仕事の役に立ったからこれだけ返せた。風邪をひいて寝込んでしまったから引くことの何枚。ずっとずっと、その足し引きを数えてきたわ。計算高い、卑しい考えでしょう。これまで受け取った分だけで、金貨50枚の価値を超えてしまった。だからわたしどうしてもそれを、両親に返したかった。……それしか、わたしが彼らにもらったたくさんの素晴らしいものに答える方法が、わからなかったから」
腕が伸び、ぎゅっと抱かれた。
ああ、温かいと思う。幸せだと思う。
「……いつかの私の言葉が、君を深く傷つけたんだね」
「あなたは真理を言っただけ。何も悪くないわクラース」
「一度放った言葉は消えない。でも言葉は重ねることができる。君に謝らせてほしい」
「……」
「私は女性を君しか知らない。でも人間というものをたくさん見てきた。書の中でね。人というものはたいていは愚かだ。手に入れた権利に甘んじ、増長し、簡単に堕落する。手にあるものをいつのまにか当たり前だと思い違え、失うまでそれに気付けない。君は違う。与えられたものを当然とせず、大好きな両親に教えられた方法でひとつひとつ数え続け、心から大切にし、それに報いるために努力して自分を磨き続けたのだろう。与えられた愛に、精一杯の愛を返し続けてきたのだろう。17歳の健康で美しく賢い女性ならばどこに行っても生きられたのに、君は困窮する家族を見捨てず、家族のために死を覚悟して娼館の扉を叩こうとした。この屋敷に来ることを選んだ。家族のために。そのどこに卑しさが、計算高さがあるだろう。それは誰にでもできることではないよ、オリヴィア」
「……」
「君は贋作ではない。路上のごみであるはずがない。君は天に与えられた自分の道を必死で生きた、聡明で我慢強い、努力家の、愛情深い女性オリヴィアだ。……私は君が私の妻であることが、心から誇らしい」
「……」
オリヴィアはこの人の腕の中でなら、何度でも泣いていいような気がする。
なぜかはわからない。言葉の後ろに本心を隠すことに慣れきった、いつだって表面を取り繕う自分と、正反対の人だからだろうか。自分では守れない何かを、守ってもらえる気がするからだろうか。
「持ってまいりましたぞおっとっと。お取込み中でございますな」
「いえ、お気になさらないで。拝見します」
ずらりと並んだ、当時の捜索の記録に、オリヴィアは目を通した。
目を通しきり、そんなはずがない。きっとどこかで見落としがあったのだと初めに戻る。
ない。
「トビアス様、紙に欠落がございませんか」
「ございません。こうして綴じ、頁数を振っておりますので」
「……」
呆然と、オリヴィアは男達を見た。
ああそうだ。ここオールステットはきっと、ずっと男達の館なのだと思った。
「……どうしてアードルフの部屋を調べていないの」
男達は目を見合わせる。
「だってオリヴィア……どうして隠し物を、一番見つけてほしくない相手の部屋に隠すんだ」
「……」
馬鹿、と叫びたくなった。
馬鹿。本当に馬鹿。
伝わらなかったのだ。何ひとつ。カミラの思いは、一滴すらも。
「……そもそも、どうして彼女が100日もかかる方法で呪ったか、お考えになったことは?」
「そういう呪いなのだろう?」
「ええ、他にもあったし、それしかなかったのかもしれません。でも、カミラは思っていたわ。毎日、血が出るほどの傷が増えるのだから、きっと、途中で気付いてもらえるって」
涙が出た。
きっと傷だらけだっただろうカミラ。血とともに、100滴をはるかに超える涙を流し続けただろうカミラ。
「『指をどうした、カミラ』。途中できっと、そう言ってもらえると思っていたわ。言ってほしいと思っていた。だって好きな人に心配されるって、とても嬉しいことだもの」
男達は呆然としている。
「呪っていることに気付いてもらえると思っていたわ。馬鹿なことはやめなさいと、止めてもらえると思っていたわ。それくらいの関心がまだ、夫の中に残っていることを、信じていた。でも彼は、……最後までそれに、気付かなかった」
そうして、呪いは成ってしまった。100滴の血は誰にも知られずに、気付かれることなくカミラから流れてしまった。
「私を見て。本心を見つけて。ずっと、ずっと、カミラはそう言っていたのに」
唇を噛み締め、オリヴィアは天井を睨みつけた。
「アードルフのバーカ! 浮気者! せめて浮気の証拠ぐらいしっかり隠すぐらいの最低限の誠意持ちなさいよこの最低最悪無神経頭お花畑男! 悪鬼⁉ 悪女⁉ こっちはなりたくてなってないわよ元はといえば全部! 全部! 全部あんたの浮気が原因じゃないの!」
オリヴィアの絶叫。男性陣は自分が怒られたような顔になって静まり返っている。
と、そこに、小さな音が響いた。
「なんだ?」
「オルゴール?」
「……永久」
オリヴィアはクラースを見た。
「アードルフ……クラース様のお部屋に、オルゴールはおありですか」
「……あったかトビアス」
「ええ、言われてみればありましたな。……アードルフ様の時代に」
眉が寄り、苦しげになって、ため息のように言う。
「……カミラが婚姻の際、アードルフ様に贈ったものが」
「行きましょう」
廊下を歩む。クラースの部屋で鳴っているならば、ここまで聞こえるはずのない音楽が聞こえる。
当然オルゴールなので歌はない。か細いメロディーだけが、聞こえるはずがないのに聞こえる。
よく知った曲なので、そこに頭の中で、勝手に歌詞が乗る。
光り満ち花咲く麗しき愛の間へ
誠実な心のみ持ち歩み行かれよ
粛々と歩み行かれよ
それは正しき永久の道なり
汝らの誠の、永久の の道なり
音が一つだけ、飛んでいる。
クラースの部屋の扉を開く。もう音はない。
「これです」
美しい装飾の、化粧箱だった。
クラースが受け取り、中の板を外し、音が出る部分をむき出しにする。
「……」
歯の一本に、銀色の針が糸により固く結ばれている。
そのせいで櫛がはじかれても震えず、あの部分だけ音が飛んだのだ。
永久の『愛』の部分だけ。
「カミラ」
オリヴィアは彼女に呼びかける。
「見つけたわ」
『私を見つけて』
彼女もまたずっと、生前からずっと、そう願っていた。
隠した本心を。呪いたくなるほどの愛情を。
夫だけが失ってしまった、永久の愛に気づいてほしくて。それを失った悲しみに気付いてほしくてずっとここにいた。
彼女の死後アードルフが彼女を思い出し、ただの一度でもこれを鳴らしていたら、最初の12月が来る前に人々はこの存在に気付いただろう。
『あれはカミラのオルゴールだ』と誰かが思い出していれば、これはとっくに処分されていただろう。
悪鬼、悪女と決めつけて、誰も彼女の心を見なかった。人々のそれが、カミラの呪いをこの屋敷に留め続けた。
カミラはもう、解放されたかった。だからオリヴィアに、彼女はずっと伝え続けたのだ。『私を見つけて』と。
カミラとオリヴィアは似た者同士だったから。いつだって、自分の本当の心を隠しながらでなくては生きられない者同士。
「あなたを見つけた。呪いはおしまいよ、カミラ」
呪ってしまったがゆえにこの屋敷に閉じ込められている、今もどこかにいるだろう彼女にオリヴィアは言った。
外。
クラースがハンカチ越しに、針を持っている。
門に向かって歩み、それを通り越した瞬間、針が朽ちたかのように銀の粉に変わり風に流れた。
クラースが驚いたようにハンカチの中を見てから、振り向く。
踵を返し、オリヴィアたちのもとに歩み寄った。
「……終わったのだろうか」
「あとは、満月を待ちましょう」
「……」
「大丈夫。きっと。彼女はもういないわ。……そんな気がするの」