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7/11

7 夏

 生活に大きな変化がないまま、夏になった。


 オリヴィアはやっぱり掃除をし、本を読み、庭の手入れをしている。お仕事で手伝えることがあったら手伝って、食事をクラースたちと共にし、眠り、朝を迎える。


 何度かあの鏡の前に立ち、カミラを呼んだ。彼女は答えず、姿を現すこともない。


 クラースはもうオリヴィアに慣れたようで、オリヴィアを普通に見る。ちゃんと自分の仕事をできているのかと、オリヴィアは時折不安になる。自分はクラースに、果たして愛されているのだろうか。


 軽食の時間。休憩所に向かう途中、食堂にコニーがいた。


「コニーさん」

「はい」

「休憩所にはいかないの?」

「この後出ますので、お先にいただきました」

「そう。……聞いてもいいかしら」

「何なりと」

「クラースは、私を愛しているかしら」

「何をおっしゃっているんです。書のことを取っ払えば、旦那様の頭の中はあなたのことばかりですよ」

「本当に?」

「ええ」


 ふっとコニーが笑った。


「旦那様を愛してくださっているのですね、オリヴィア様」

「ええ。それが仕事だもの」

「……」

「なあに?」

「『愛してる』と、旦那様におっしゃらなくなりましたね」

「……」

「大切な真実ほど秘めたくなる。嘘ならばいくらでも口に出せるのに。人間って不思議だ」

「どうかしら」

「旦那様だってあなた様に『可愛い』と言わなくなった。もうその段階じゃないんでしょう。自信をお持ちください」

「愛されて死ぬ自信を」

「ええ」


 ふっと互いに笑った。


「お願いね」

「承知いたしました」


 そうして別れた。


 軽食を食べる場所に行けば、クラースがいた。

 休憩時間なのに休憩せず、じっと手元の紙を見ている。


「なにかありまして?」

「ああオリヴィア。見てごらん」


 紙を覗き込む。


「ホ……メロ、ス?」

「ああ。ホメロス神話の新しい話が発見されてたと話題になったのだけど、贋作だった」

「そんなことまでおわかりになりますの?」

「比喩表現が強すぎるのと、どの章につながる話なのかがわからない。研究所ではお手上げだからと回ってきたんだけど、まず文章が違う」


 そっとクラースの指が文字をなぞる。


「後の世に、似せて作られたものだ。贋作や、すでにある何かを真似て書いたものの文章は、固くて、遊びがない。本来の姿を殺し無理やり何かに似せているから、どことなく不自然で息苦しい。決定的なのはあの時代にはなかった単語が使われていることだったけれど、一行目からなんとなくわかったよ」


 横顔が悲しそうだ。


「これの作者だって、ここまで真に近いものが書けたのに。理由があってやったことだろうけれど、作者本来の力で、自分の物語を書いたなら、どんなものができたのだろうと思わざるを得ない。もったいないな」

「……」


 ふとクラースが顔を上げた。


「悪いことを言ったかい?」

「……」


 オリヴィアは微笑んだ。


「いいえ。……真実だと思うわ」

「……今日はいつもの服だよ」

「泣いていません」


 軽食を食べ、別れた。

 そっとカミラの部屋に進む。

 鏡。ふっと見れば、彼女がいた。

 悲しそうな、同情するような目でオリヴィアを見ている。


「お久しぶり」


 鏡は何も語らない。

 小さなメロディ。『永久』。


「この歌が好きなの?」


 風が吹く。瞬きをしたら、いつもの鏡に戻っていた。


「カミラ」


 やはり彼女は、語らない。







 順調に伸びていたいくつかの花が枯れてしまった。

 かわいい蕾がついていたのに、と悲しくなり、植えてしまったことに申し訳無さを覚える。

 手を土だらけにして、枯れたものを抜いていく。なんだか少し先の自分を見ているようだった。


 視線を感じ振り向く。さっと誰かが物陰に隠れた。

 オリヴィアはそこにそろり、そろりと歩み寄り、ぱっと覗き込んだ。


「かくれんぼですの? クラース様」

「……悲しんでいるかと思って」

「ありがとうございます」

「ヨーゼフが、君の手入れは素晴らしいと言っていた。君のせいじゃないオリヴィア」

「ありがとうございます」


 庭のベンチに恐る恐るクラースがハンカチを敷いた。きっとコニーさんに聞いたのだわと思いながら、オリヴィアはそこに座った。


「君に不得手はないのかい?」

「……」


 夏の光が眩しい。

 この光を浴びられるのは今年で最後なのだと思いながら日を浴び、夏の香りを吸い込む。

 ちかちかと、懐かしい記憶が頭をよぎった。


「……かくれんぼ」

「え?」

「かくれんぼの隠れるのが下手でした。すぐに見つかってしまって」

「君が?」

「ええ。近くにハンカチを落としていたり、髪の毛が見えていたり」

「君が?」

「ええ。……だって、見つけてほしかったから」


 子煩悩な父は、忙しい日々の合間に、よく子どもたちの相手をしてくれた。

 いつもドキドキしながら隠れた。見つけてもらえるか、不安でしかたなくて。


「弟と妹が先に見つかったら、きっとそのまま三人でどこかに行ってしまう気がしたから。さあ家族はこれで揃った。みんなでご飯にしようって」

「……」


 オリヴィアは自分の髪を一束つまみ、陽光にかざした。


「うちで栗色なのはわたくしだけ。皆、陽の光のようなきれいな金色なのよ」

「……君の髪はきれいだ」

「ありがとう。……きょうだいで、本当の子じゃないのはわたくしだけだから。そうなるんじゃないかって、いつも怖かった。だからわたくしはどうしても、父に一番に見つけてほしかったの。『わたしを見つけて』って、いつもいつも願いながら、震えて隠れていたわ」

「……」

「『見つけたぞ、オリヴィア』。いつだってそう言って、父は一番にわたくしを見つけてくれた。嬉しくて、ホッとして、わたくしは父に抱きつくの。海の匂いのする人だった。大好きだった」

「……オリヴィア」

「はい」

「今日の服は安い」

「本当かしら」


 クラースの胸に、こつんと頭をつける。

 今日も言葉はなく、そっと大きな手が、オリヴィアを守る。


「お父様はきっと気づいていたよ、オリヴィア」

「……そうかしら」

「うん。見つけられた君が、安心した顔で笑うのが好きだったと思う。君はきっとずっと、大人びた子だったんだろう」

「……」

「いつもどんなことでも頑張って、笑いながら我慢するのが得意で、弟や妹に優しいお姉さんだっただろう。きっと」

「……」


 顔を上げ、クラースの顔を見る。


「クラース」

「はい」

「わたくしが好き?」

「……」


 クラースが苦しそうな顔をした。

 肩をそっと離される。


「いいや好きじゃない。少しも、まったく愛していないよオリヴィア」

「そう。残念」

「好きじゃない」

「悲しい」

「本当だ」

「そう」

「本当だぞカミラ。私は彼女を慰めているだけだ」

「聞いてるかしら」


 手を伸ばし、夏の陽光に透けるきれいな銀色の髪を撫でる。

 優しい人。オリヴィアの、今だけの夫。


「離れよう。この体勢だとなんだかまずいことが起こる気がする」

「起きてもよろしいのに。夫婦なのだから」

「まずいまずいまずい。断固離れる。ふう危ない」

「寂しいわ」


 笑って立ち上がる。


「おやつに誘いに来てくださったの?」

「ああ。今日は氷菓子だそうだ」

「まあ嬉しい。暑いもの」

「そうだね。私もあれは好きだ」


 連れ立って歩く。


 こうできるのも、あと三月。

 枯れ落ちまとめられた花々を振り返って見てから、オリヴィアは歩き出した。




 大きな事件が起きることもなく、静かに季節は進む。


 その時期その時期の美味しいものを食べ、体を動かし、頭を動かし、オリヴィアは眠る。



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