5 木漏れ日
本当に寝室が別だったわ、と、朝食を部屋で取り終えたオリヴィアは思った。
こっそりもりもり食べるためにとコニーが気を使ってくれたので、今日の朝は一人。美味しい御馳走でおなかがパンパンだ。
あのあと普通に部屋で別れ、着替え、湯を浴び眠った。妻になったとはいえ、生活は何も変わりないようだ。
皿を下げに厨房へ行く。コニーがお茶を飲んでいる。
「おはようございます奥様」
「おはようございますコニー様。お仕事はまだですの?」
「いえ、ちょっと退散しました。あんまりにも面白すぎて」
「何がですの?」
「いえさっきクラース様が珍しく現代語の辞典なんて開いてらっしゃったので、何を今更と思って覗き込みましたら」
「はい」
コニーの手が口元に当てられた。
「『恋』を」
「恋を?」
「『恋』を引いていたのですよ、辞書で。真顔で。ものっすごい真剣な顔で。21歳の男が。……『恋』を」
ブフーとコニーが耐えきれなかったように噴き出した。肩が震えている。
あらあらと思いながらオリヴィアは想像してみた。背中を丸め、『恋』の項目を真顔で凝視するクラースを。
きれいな横顔にかかる透き通った銀の髪、物憂げな水色の目は伏せられ、その先の辞書には、『恋』。
「っ……」
「っう……ぐっ……」
二人必死で腹筋を使っている。笑っちゃだめだ笑ったら彼があまりにもいたたまれない。
はあはあと肩で息をして、二人は耐える。
ようやく波が引き、はあはあ言いながら涙目をハンカチで抑えているオリヴィアを、コニーがじっと見ていた。
「なんでしょう」
「いえ、予想よりもはるかに順調で助かっておりますオリヴィア様」
「それは何よりですわ」
ジェフリーがオリヴィアの前にティーカップを置いてくれる。
「おいしかった?」
「はい。朝からもりもりいただきました」
「それはよかった。ちょっと出るよコニー。そろそろ卵売りが来る」
「わかった」
ジェフリーが前掛けを外して厨房の奥に行った。
コニーが静かに、オリヴィアを見ている。
「オリヴィア様には我々は、悪魔に見えましょう」
「いいえ。金貨に見えております」
「そうですかそれは心が軽くなるな。こんなに顔を合わせておきながら、心の中では『どうか無事に死んでくれ』と思っている相手を、憎くは思われませんか」
「いいえ。本当の悪魔は、事前に何の説明もなく突然お金と命を巻き上げていくものです。あなた方は紳士ですわ。事情を明らかにしわたくしに選択させたうえ、今のところなんの約定も違えておりません。これはわたくしが選んだこと。今更条件を変えられても、困るのはわたくしです。今後もどうかぶれることなくお願いいたします」
「……」
コニーの穏やかな深い茶の瞳が、オリヴィアを見ている。
「少し、昔話をしてもよいでしょうか」
「はい。わたくしお話し相手が欲しくてしかたがございませんの」
「ありがとうございます。私ことコニー=アンドリューはこれでも昔、天才と呼ばれた研究者でした。古語に精通し、暗号解読のひらめきが群を抜いて優れていると、研究所ではちやほやされて調子に乗っていたものです」
「コニー様が?」
「はい。私が。二十代の、若さゆえの愚かさです。お見せできないほどのうぬぼれっぷりでございました。22歳のとき、ある一枚の翻訳文に出会いました。旧ケルテンク語の、エドモントという歴史学者の散文だったのですが、その人の文章がまあ読みにくくて有名な人で。詩的かと思えば突然数学的な話題になり、独特の比喩表現も混ざってまさに学者泣かせなその人物の、何気ない日記のようなものです。それほど価値はないだろうと今まで後回しにされていたそれが、一枚の紙の上に、流れるような文章で現代語に訳されていた」
コニーがそっと上を見る。
「ああ、エドモントが言いたかったこと、見ていた世界、残したかったものはこれだったのかと、全身鳥肌が立ちました。美しい文章。だがしかしそれはけしてエドモントの吐息を消すことなく彼の生の声がそこにありのままに表現されていました。エドモントが現代語を話していたならばまさにこれになっただろうという、正確な。何一つ彼の心を無視しない、だがしかし美しいものがそこにあった。衝撃的でした」
「……」
「その訳者が11歳の少年であったことがどれほど、当時の私の長かった鼻に衝撃を与えたか」
「ぽきりと?」
「はい。ぽきり。根元から。研究所で上に行くことばかり考えていたはずの私はその日のうちにこちらに文を書きました。『御子息の助手にしてくれ』と。まだセリシオ様が御存命中で、応のお返事をいただき速攻で荷物をまとめ、それ以来こちらにお世話になっております」
じっと、コニーはオリヴィアを見る。
「血統、才能。この世に存在するとは死んでも認めたくなかったそれを、私はここにいる限り認めざるを得ない。クラース様は長いオールステットの輝かしい歴史の中でも、抜きんでた才能の持ち主です。彼には文字が光って見えるそうですよ。今必要な文字、情報、そういったものが多くの文字の中から自ら光り、その存在を彼に知らせるそうです。正直私には彼が何を言ってるのかさっぱりわからない。もうこの人に勝とうとか、比べようとか思う気力すらわかないほどに、あの方は天才なのです。オールステットはそういったものを世に生み出す家なのだ。ここで絶やすことなど許されない。この国の過去と未来のために」
「……」
「そのためならば私は悪魔にもなりましょう。正直あなた様のことは大変好ましいお嬢さんだと思いますが、それ以上に私はオールステットに心酔している。ぶれる心配は御無用。そしてそれはトビアスさんも一緒、いや年季が入っている分私よりもはるかに強い。我々は揺るぎなくあなた様の悪魔であり続けますのでご安心ください。今後ともよろしくお願いいたします、オリヴィア様」
「よくわかりました。お家大事の忠義者。心強いですわ。わたくしも家が大事です。金貨50枚、必ずや手に入れるため、今後も努力いたします。変わらぬご協力をお願いいたします」
「承知しました」
共犯者の視線を交わしてから、コニーと別れた。
穏やかそうな彼の中にある、熱い思いを正面から浴びたような心持ちのまま歩む。
才能。そして血統。
歴史ある家に生まれた、クラースという正しき継承者。
オリヴィアがうまくやれば、その血は脈々と続いていく。呪いも消え、過去の醜聞もきっとときと共に薄れながら、平穏に。
屋敷の中で消えていった女たちの悲鳴も、血も、涙も時間が押し流して。穏やかに。
そっと二階に足を運んだ。古びた鏡の前に立つ。
当たり前のもの以外何も映らない。オリヴィアがそこにいるだけだ。
「カミラ」
友を呼ぶように彼女を呼ぶ。
返事はない。
しばらくそこにそのまま立っていた。そしてくるりと踵を返す。
さて、今日はどうしよう。たくさん食べた分体を動かさねばとオリヴィアは思った。
今日も晴れ。
土まみれである。
中庭。これならきっとすくすくと育つに違いない土に、なにも植わっていない。
借りたクワで固まってしまった土を起こしていると、おじいさんが歩み寄ってきた。
鷲鼻、気難しそうに寄った、白くて長い眉。
ああ、ようやく会えたとオリヴィアは微笑んだ。
「ヨーゼフ様でいらっしゃいますね」
「そうです。奥さまですな」
「はい。オリヴィアと申します。短い間ですがよろしくお願いいたします」
「……ご挨拶が遅くなり申し訳ないことです。あっちこっちとこまこま走っておるものですから」
「いいえ。勝手に庭をいじって申し訳ありません」
「クラース様がいいというのなら、わしなんかに駄目を言う権利はございません。お好きになさってください」
「ありがとう」
ヨーゼフがそれ以上続けないので、オリヴィアはしばし、作業に没頭した。
「奥様は」
「はい」
「この家のことをご存じの上で、お越しになられたと聞いとります」
「はい」
「勇気のあるお方だ」
「いいえ。お金がなかっただけです。わたくしにはもう体と命しか、売るものがなかったのです」
「……」
ヨーゼフの目が、じっと掘り返されていく土を見ている。
「かつてここは様々な色の薔薇で、いっぱいでございました」
「ヨーゼフ様がお手入れを?」
「いいえ。カミラ様が自ら」
「……」
「悪鬼と、とんでもない悪女であると、旦那様方はおっしゃいますが、けしてそのようなお方ではございませんでした。どうかかの方を、お恨みにならないでほしいと願うのは、じじいの勝手。お聞き流しください」
「カミラ様は」
オリヴィアは手を止めて言った。
「どのようなお方でしたの?」
「……優しいお方でした。13でこちらにお世話になった、洟垂れ小僧だったわしにとっては」
「……」
それ以上続けず、彼は首を振った。
「奥様はここに植えた花がどうなるかも、お聞き及びでしょうか」
「はい。つぼみのまま咲かずに枯れると。でもわたくしはやってみたいのです」
「そうですか。では何かのついでに種やら苗やらを買ってきましょう。ご希望はありますか」
「ありがとうございます。植えたいものに関しましてはこちらにメモが。お手数をおかけして申し訳ございません」
「……」
ポケットから出したメモを渡すと、ヨーゼフは沈黙ののち、頷いた。
「では、入ったらお知らせします」
「ありがとうございます」
「いえ。どうぞ旦那様と睦まじくお過ごしください」
「はい。そう願っております」
ヨーゼフを見送ってからもオリヴィアはしばらく土をいじっていた。
やわらかく、ふかふかに、と願いながら汗を流していると、なんだか気持ちよくなってきた。
ふ、と視線を感じて上げた。男が三人、じっとオリヴィアを見ている。
「お昼ですよ、オリヴィアさん」
「土まみれでも可愛いっていうのはどういうことだ。そして意外と力持ちだ頼りがいがある」
「若さですなあ」
はっはっはとトビアスが笑う。
「ではまず体の土を落とさなくては」
「たまには外でというのはいかがです。ピクニック気分で」
「天気もいいし、いいんじゃないですか」
「楽しそうだ。いいかいオリヴィア嬢」
「お気遣い痛み入ります。お願いいたします」
そうは言っても出来る限り体の土を落とし、手を洗い、布で顔を拭う。
だいぶ暖かくなってきた。もう少しで空気に夏のにおいが混じるだろう。
皆はどうしているだろう、と思う。ちゃんとご飯を食べているだろうか。
「悲しいのか? オリヴィア嬢」
「もう妻です。呼び捨てになさってクラース」
「…………オリヴィア」
「はい」
「……オリヴィア」
「なんですか、あなた」
「オリヴィア」
「なあに。旦那様」
「仲良しですなあ」
「なによりですね」
やがて到着したものを皆で食べる。平たい生地の上に様々な具材がのせられ、それぞれが美味しそうな加減でこんがりと焼かれている。
果実と野菜を混ぜたのだろうジュース。具の大きいスープ、切った生の新鮮な野菜の上にはざくざくした触感の何かを揚げたものがかかっていて、ドレッシングが少しスパイシー。
伸びても伸びてもまだ伸び続けるチーズに涙が出るほど笑いながら、太陽の下で食べる昼食は実に楽しくて美味しかった。
「楽しい?」
クラースがオリヴィアに尋ねる。
「ええ、とっても。クラースは?」
「楽しい」
「よかった」
微笑んで見返せば、やはりじっと彼はオリヴィアを見ていた。
「とても楽しい。オリヴィア」
「……よかった」
「君という人は、楽しくて可愛いんだな」
「さらに言うと勉強とお金好き」
「それは楽しみだ。オリヴィア」
「はい」
真剣な水色の目が、じっと、オリヴィアを見る。
「君の可愛さに目がくらんで、君の状況も考えることができておらずすまなかった。アシェル家のことも、コニーに聞いて初めて知った。お父さんの弔いをしよう。まだ、落ち着いてやれていないのだろう? 今度、近くの川に舟花を流しにいこう」
「……」
オリヴィアはじっと彼を見た。
舟花流し。海で死んだ人に対して行う儀式だ。
故人を想う人が川に流したその白い花は見えぬところで小舟に変わり、海で迷う魂を迎えに行くのだという。
オリヴィアはずっとそれをやりたかった。でも花を買っている余裕も、それをしている時間も、これまでずっとなかったのだ。
「……」
そして、泣いている時間も。
「……コニー。こういうときはどうしたらいいんだ」
「黙って胸を貸しなさい。男なら」
「……」
思わずすがりついた胸に顔を埋め、オリヴィアは泣いた。
この場所でオリヴィアは誰かの自慢の娘じゃなくていい。優しくて強いお姉ちゃんじゃなくていい。ただのオリヴィア、この人の妻だ。
「お父様……」
「どうしよう見ているだけで胸が苦しいもっと慰めたいどうしたらいい」
「ぎゅっといけぎゅっと。旦那だろ!」
「よしコニー我々は少し離れよう。ダッシュ!」
「はいトビアスさん!」
「……」
「……」
ずっと我慢していた父への涙は、一度出たらなかなか止まらない。胸が張り裂けそうに痛んで、自分よりも大きなものに包まれる温かさが久方ぶりで、また泣けた。
励ましの言葉も、慰めの言葉もなく、クラースの大きな手が不器用にオリヴィアの背中を撫でている。
どれくらい経ったか、目の前の布がびちょびちょになっていると気づき、はっと現実に引き戻された。顔を上げるとやはり、きれいなクラースの顔があり、水色の目と視線がぶつかった。
銀色の髪が太陽に透けて、とてもきれいだ。
「……落ち着きました。服をこんなにしてごめんなさい」
「とても光栄です」
「……ありがとう、クラース」
「……まだこのままでもよいのだよ」
「……」
なんだか恥ずかしくなってしまった。17にもなって、子どものように。
「いいえ離れますごめんなさい。本当に恥ずかしい。はしたないことでした」
「……君はずっと、いつ見ても可愛くにこにこしていたが、本当はこんなにも泣きたかったのだね」
「……」
「お父様が、大好きなんだね」
「……はい」
せっかく止まったのに、と思いながら、今こぼれた涙をそっと拭いた。
まだ滲んでいる視界に彼を入れる。
こんなにたくましい人だったかしら、と、改めて形を見直すように、じっと。
そういえば太陽の下で彼を見るのは、これが初めてなのだ。
「……あまり見つめないでくれ」
「いつも見つめてくるではありませんか」
「私のは仕方がない自分でも制御不能な不可解な現象なのだから。一度部屋で休んだほうがいい。ずいぶんと動いたみたいだし、疲れただろう。また夕飯に会おう」
「はい。お仕事の邪魔をしてすいませんでした。ありがとうございました」
「……オリヴィア」
「はい」
「何かあったらすぐに言うのだよ。君はおそらく、我慢強すぎる傾向がある」
「……はい、旦那様」
微笑んだけれど、きっと泣き疲れた子どものような顔をしていたと思う。
甘えること。これまでオリヴィアが最も苦手だったことを、今日、この人にした。彼が少年みたいな目をしているから、オリヴィアもつられて少女に戻ってしまったのかもしれない。
廊下を歩み吹き入るあたたかな風に髪を揺らされながら、きっと自分は、あの方を愛せるとオリヴィアは思った。
人よりも美しい言葉を数多く知りながら、何も言わずにただ不器用に撫でてくれた大きな手の感触が、いつまでもじんわりとしたあたたかさを伴ってオリヴィアの木漏れ日の映る背中に残っていた。