4 永久の祝宴
髪とお化粧は今日も自分でかな、と思っていたら、ノックの音がした。
「はい」
「オリヴィア嬢、髪結いを連れてまいりました」
「まあ!」
嬉しい。いくらオリヴィアが練習してきたとしても、やはりプロの手には敵わない。
うきうきして扉を開けると、微笑む背の高いきれいな女の人がいた。何か美しさに迫力がある。
「こんなきれいな方をお屋敷に入れてよろしいの?」
「彼は大丈夫ですよ。腕のいい男なのできっとお役に立ちましょう」
「……」
もう一度見る。きれいな女の人がいた。
「奥様、本日はよろしくお願いいたします」
やや低い、でも女性と思えば思える声。まあいい、何も気にしないことにしよう。
どんなふうがいいこんなふうがいいと、久々に髪や化粧のことで誰かと話せるのは楽しく、彼女は話術も優れていて、かといってそれでなめらかに動く手が止まることはない。
手際よく施された化粧が鏡の中で煌めいている。生花を散らされた髪もだ。いつもの自分の栗色の髪が白い花に彩られて華やいでいる。
「きれい……」
「よくお似合いですよ、花嫁様」
「なんだか普段の三割増しになったかしら」
「ええ。元がいいから割り増し分も大きくてよろしいこと」
「ええ、化粧師さんの腕がいいから助かります」
互いを褒め合って、鏡越しに微笑み、まっすぐに目が合った。
「もっと悲壮感がおありかと思ったわ」
「望んだことです。どうせなら楽しく」
「お金が理由ですの?」
見下すでもなくさらりと聞くのは、その大切さを知っているからだろう。
「はい」
「そう。人が生きるために必要なものですものね」
「はい」
オリヴィアの返事に力強く微笑み、最後にオリヴィアのおくれ毛をくるんくるんと指で回してから腰を伸ばし、彼女は鏡の中から去った。
「それではこれで。何かありましたら呼んでください奥様」
「はい。本日は本当にありがとうございました」
ぱたんと髪結いの姿が扉の向こうに消える。
身を包む白い、柔らかなドレスをオリヴィアはそっと撫でた。
『おめでとう、オリヴィア』
父と母に目を細めながらそう言われ、微笑んで父の腕から手を放し、父の勧める男性の腕を取るはずだった。
だが嘆いても仕方がない。これが運命だったのだ。
大きな姿見の前に立って、ほうっとオリヴィアは微笑んだ。
おそらくオリヴィアは今までのどのオリヴィアよりも美しい。
これをもらってがっかりする男性は、そうそういないはずだ。
もちろんクラースは喜んでくれるだろう。『可愛い』と言ってくれるだろう。ものすごくオリヴィアを見つめながら。
鏡の中の自分が微笑んでいることにオリヴィアは気づいた。幸せな花嫁にしか見えない。
「どうせなら楽しく」
ぽつんと言って微笑んで、オリヴィアは自分の部屋を後にした。
「では行きますよ。3、はい御対面」
カウントダウンを待たずして扉が開けられ、押されるようにしてクラースが出てきた。
数歩踏み出したのち足を止め、呆然とオリヴィアを見つめ固まっている。
今日のクラースはとてもピシッとしていた。ぬめるように光る銀地の上下揃いの正装。しっかりと糊がきき、計算されつくした無駄のないラインが彼の背の高さと手足の長さを存分に引き立てている。
いつもどこかがくちゃっとなっている長い銀の髪は梳かれオールバックに整えられ、いつもは見えない形のいい額が丸出しだ。
男性にしては白い肌。きれいな水色の目、形のいい鼻、少し薄目な唇。
ああ、本当にきれいな男性だわとオリヴィアは改めて思った。
どんな醜男にも、年寄りにも、微笑んで添い、愛するつもりだった。こんな素敵な人のお嫁さんになれるなんてと、オリヴィアは思わず微笑む。
「なんだこの美しさは。神々しい。まぶしい! この世のものとは思えない!」
「よっ果報者! あんたの奥さんだよ」
「男冥利につきますなあ」
男性陣は今日も褒めてくれる。ありがたいことだとオリヴィアは微笑む。
「さあエスコートですよクラース様。ファイト!」
「腰をお抱きなさい」
「こんな細いものをか!? ポキッといくんじゃないのか?」
「そこは優しく」
「はい。お願いいたします」
見つめれば赤くなって、ふいと目を逸らす。が、すぐに見てくる。
可愛い、可愛いという声なき声が聞こえる。
「可愛い……」
今度は本当に聞こえた。こんなに喜んでくれる人がいるだろうか。
顔を見つめ、手袋のかかった手で彼の手を取りそっと腰に回させる。
「……」
ガッチガチに緊張した様子で、されるがままだ。
「ありがとうございます。裾が長いので、歩きにくいのでございます。どうかお願いいたします」
「うん、わかった」
本当にこの方はわたくしよりも年上なのかしらと思いながら、オリヴィアはその手から伝わる熱を感じている。
「もっと身を寄せないと歩きにくいですよ」
「……」
「何か?」
「いいえ」
そうしてほんの少しの距離を歩き出すと、コニーがいたずらっぽく笑って体の後ろから弦楽器を取り出し顎にあてた。
滑らかな前奏が響く。ではまさかとトビアスを見ると、彼は微笑んだのち腕を広げ胸を張った。すうと息を吸う。
粛々と歩み行かれよ
それは正しき道なり
それは汝らの誠の道なり
『永久』。年季の入った独唱。ものすごく上手い。
思わず驚いて見たオリヴィアに、トビアスはウインクして見せた。まあ大変。なんてかっこいいのかしらと思う。
高い山、深い谷、狡猾な悪魔の囁き
恐れるな、道を行け、それは正しき道なり
光り満ち花咲く麗しき愛の間へ
誠実な心のみ持ち歩み行かれよ
粛々と歩み行かれよ
それは正しき永久の道なり
汝らの誠の、永久の愛の道なり
クラースの腕をつかんでいなかったら、きっと拍手してしまったことだろう。
二人ともプロ級である。まさかこんな名人がこんなところにいるとは思わなかった。
驚き頬が赤く、満面の笑みになっているだろうオリヴィアを見て、我が意を得たりという顔で二人が笑っている。
「すごい」
「ああ。二人はなんだかんだでいろいろなことができる」
「クラース様は?」
オリヴィアは夫を見上げた。彼は真面目な顔でオリヴィアを見ている。
「私は仕事しかできない。仕事しかしてこなかったから」
「そう」
「残念かい?」
「いいえ。これから始める未知の楽しみが、たくさんあるということだもの」
「……そうだね」
クラースがふっと微笑んだ。いつも真顔でじっと見つめてくるので、今の表情は初めてかもしれない。
これからオリヴィアがいることに慣れてくれたら、もっといろんな表情を見られることだろう。楽しみだ。
そして料理が運ばれる。ジェフリーがきっと腕によりをかけて作ってくれた、数々の御馳走。
メインにムルール鳥の丸焼きときたか。ふわふわでやわらかい身と、淡白ながら奥深い味わいを持つ希少な種だ。濃いめのソースが合う。
目の前のおいしそうなごちそうの数々を、じーっと残念な思いでオリヴィアは見つめた。
「ねえジェフリーさん」
「なんですかきれいな花嫁さん」
「わたくし本当は目の前のこの美味しそうな御馳走に脇目も振らずにがっつきたいのですけれど、本日はこんななりでございましょう」
「ええ。目がつぶれそうなほどお美しいですよ」
「ありがとう。でもこの恰好はお料理をおなかいっぱいに食べるには、あまりにも不都合が多くてございますのよ」
「そうでしょうね。そう思って取っておいてありますから、明日にでも人の目がないところでがっつけばよろしいかと」
オリヴィアはにっこりと笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして。美しい花嫁さん」
ウインクを残してワイルドな料理人は厨房へと戻った。
視線を感じ見上げた。やはり見られている。
見返すと、やっぱり固まったのち、息を吐いてから意を決したように言う。
「まだ言ってなかったね。今日の君もとても美しいよオリヴィア」
「言ってらしたわ言ってないとお思いでしたの最初から全部聞こえましてよ。ありがとうございますクラース様。今日のクラース様もとっても素敵ですわ。きらきらしていて、わたくし胸がドキドキしてしまいます」
「でかしたコニー! こんな魚のうろこのようなギラギラした服を選んでくれてありがとう!」
「それシュガリーの最高級品ですよ坊ちゃ……旦那様。よくお似合いです」
食前の祈りを捧げ、微笑み、食べた。
「どうしたその服だと食べにくいのかい? アーンするかい」
「お願いします」
「冗談だ。そんなことをしたら口を開けて待つ君が可愛いだろう」
「あら、残念」
くすくす笑って、部屋の中を見回す。
忙しく人数の少ないなか精一杯してくれたのだろう飾りつけ、湯気を出す美味しい料理、笑い合うあたたかな人たち。
あのまま娼婦になっていたら絶対にあり得なかった、穏やかで美しい光景。
あたたかく、優しく、美しく丸いもの。
この幸せなものをこの先のクラースの人生にもたらすために、オリヴィアは死ぬ。この人たちに、死ぬことを望まれて。
『永久』。なんたる皮肉。だがやっぱり自分は運がいいのだ。
「どうせなら楽しく」
「何か言ったかい?」
こちらを見るクラースの顔を見上げ、オリヴィアは微笑む。
「いいえ。楽しいなと申しあげただけです。あなた」
「いい響きだ君が楽しいのならばよかった。だが早くこの魚のような服を脱ぎたい苦しい」
腕を伸ばし、夫の襟を撫でる。
「慣れておきませんと。来年からは社交も始まりましょう。何事も形から。慣れでございますクラース様」
「いいや。私は何も変わらない。何も起きないのだから」
「そうですか」
じっと、新郎と新婦は見つめ合った。
燭台の明かりに、彼の長い銀のまつ毛が揺れている。
「……愛していないよ、オリヴィア」
「とても残念ですわ」
「私は変わらない」
「せっかくおめかししたのに」
「……いいや。ピクリとも変わっていない。君の可愛さに驚いているだけだ」
「ああ、悲しい。愛する旦那様に少しも愛されなくて」
「……」
彼の水色の目が困った色でオリヴィアを見た。
ああ、今のはやりすぎたなと思う。オリヴィアは彼を傷つけたいわけではない。
「いいの。徐々に愛していただけますよう、努力いたします」
「……しないでくれ」
「いいえ。いたします。愛してるわクラース」
「断じて騙されないぞ」
「心を疑わないで。愛してるわ」
「仕事だからやっているだけだ断じて騙されん。ああ可愛い見るたびに胸が締め付けられる。おっと今のは聞かなかったことにしてくれ」
「嬉しい。あなた」
「こらこら抱きつくのはやめなさいやめなさい当たったらどうするんだ当たらないかな当たらないかな。いやいやいやいややめたまえやめたまえ。絶対にやめたまえ」
ニマニマと2人の助手が幸せな主を見ている。
和やかに、にぎやかに。小さな結婚式の夜が更けていく。