3 初夏
朝。
光が差し込む知らない天井に、一瞬オリヴィアは何が何だかわからなかった。
そして、ああ、と思い出す。オールステット家の屋敷であったと。
あろうことか昨日の服のままだ。人様のお屋敷のベッドで、汚れも落とさずに寝てしまうなんてとオリヴィアは愕然とする。
初日からの大失態。ああ、どうしよう、どうしようとオロオロしながら廊下に出る。
「クラース様?」
「おはようオリヴィア嬢。偶然だね」
「おはようございます。偶然でございますね。昨日はわたくし、誠に申し訳ございませんでした。なんというはしたない真似を」
「そんな泣きそうな顔をしないでくれ実に可愛らしい。言っておくが君をベッドに運んだのはトビアスだ私は触っていない。役得役得などと言っているから思わずグーで殴りそうになった」
「申し訳ございません……」
「よほど疲れていたのだろう。こちらに気遣いが足りなかった。ところで、風呂に案内しよう。私は一日くらい大したことないと思うのだが、女子はそうでもないとコニーが言う」
「はい。大したことです。ありがとうございます」
「終わったら食堂に。皆で朝食にしよう」
「はい。私のせいで申し訳ありません」
「いや君を見ながら食べると百倍美味しいだろうから何も問題ない。ゆっくりと入ってくれ」
真面目な顔ですごいことばかり言っていることに、彼は気づいているのだろうか。
くすりとオリヴィアは笑った。年上なはずなのに、少年と話しているような気になる。
図鑑でしか見たことのなかった珍しい虫を見つけた、小さな男の子。
「……笑っているとよけいに可愛い」
「わたくし着替えを取ってまいりますので、少しお待ちいただけますか」
「着替え……」
「すぐですので、ここでお待ちください」
「はい」
何故か敬語が返って来た。不思議だ。
朝の廊下を、二人で歩む。
「クラース様は、好きな食べ物はおありですか」
「なんでも食べるが、魚卵だけはダメだ」
「ぷちぷちして美味しいではありませんか」
「あのぷちぷちがダメなんだ。なんとなくこう一粒一粒命を噛み殺している気にならないか」
「なったことがありませんわ。甘いものは?」
「まあ、少しなら」
「そうですか」
そのうちに、何か作ってあげたいなと思う。海の向こうから来た未知のものを家のもの総出で調理して食べてみた楽しい思い出が胸をよぎり、悲しみのしっぽを残して去っていく。
あんなに楽しかったのに。お父様が生きているころ、ついひと月前まで。
「悲しそうな顔をしないでくれ可愛い。すまない。魚卵、好物だったか」
「いえ、魚卵は関係ありませんわ。では、こちらでございますね」
「うん。絶対に覗かないから安心してくれ」
「わかりました。ありがとうございました。食堂はさっきの場所ですね。終わりましたら向かいます」
「……ここで待っていなくて平気か?」
「はい。そんなの落ち着きませんもの」
「そうか。わかった」
「……クラース様」
「ん?」
「ありがとうございました。追い出さないでくださって」
クラースがオリヴィアをじっと見た。いや、ずっとじっと見ていたが。今回は真面目な顔だ。
「……君が不当な金は受け取れないというのなら、その分の仕事はしてもらおう。12月、何も起きなければ君は晴れてお役御免だ。家族のいる家に帰ればいい。アッペルトフト娼館に身を売るくらいの金はもう、家に届いているのだから」
「はい。お気遣い感謝いたします」
「それまでの間私は君を愛さないよう、努力する。君がここにいる限り私はこのようについうっかり見てしまうが、許してくれ。これは自分の力ではなんともならない、摩訶不思議な現象だからな。それが嫌ならばやはり君は、ここを出ていくほかない」
「出ていきません。むしろ渡りに船です」
「そうか。それでは。ゆっくりしてくれ」
礼をしてクラースを見送った。
見送りながらオリヴィアは考えていた。
朝ごはんはなんだろう、と。
湯上り。皆を待たしてはいけないと、オリヴィアは粉をはたいただけの顔で食堂に向かった。
「おはようございます。昨日は申し訳ありませんでした」
「おはようオリヴィアさん」
「何か違うのに可愛い。少し幼い」
「何か違うのはわかるんですな、坊ちゃん」
皆カップを傾けながら、紙を眺めている。
「古文書でございますか?」
「ああ。手ごわいのが出てきて、写しを持ち歩いて眺めてるんですよ。何かひらめかないかって」
それを懐にしまって、コニーが厨房に声をかけた。
「ジェフリー、揃ったから頼む」
「ヨーゼフさんは?」
「じいさんは早起きだ。一番先に食べる」
「なるほど」
そのまま4人でわいわい朝食を取った。新鮮な野菜がたくさん。さくさくで美味しい。お皿を運ぶのを手伝おうとしたらジェフリーさんに怒られてしまった。俺の仕事を盗らないでくれ、お嬢ちゃんと甘く。髭のある、オールバックの、ワイルドでダンディな男性だった。
「ジェフリーは愛妻家だ。惚れるなよオリヴィア嬢」
「あら危ない」
「ああいうのが好みですかオリヴィア嬢。残念でしたね坊ちゃん」
「髭か……」
「きっと似合わないからおやめなさい」
美味しい朝食をおなかいっぱい食べた。食べすぎなくらいだ。
「皆様はこのあとお仕事ですね」
「はい。オリヴィア嬢はお好きにお過ごしください」
「お掃除をしても?」
「ええ。2階の西の部屋には入らないでください。錠はかけているのでわかると思います」
「それは……」
「ええ、カミラの部屋です。荷は全て出し処分しておりますが、不穏なので封鎖しているのですよ」
「処分」
「ええ。カミラの持ち物のどれかにあの『針』が隠されているかもしれないと、全て屋敷の外に出しました。でも呪いが続いているのだからまだ針は、どこかに隠れているのでしょう。アードルフ様の代は庭の土まで総とっかえしたそうですよ。まあ、意味がなかったわけですが」
「探し物は針一本ですものね」
「ええ。探そうと思って探し出せるものではございません。なんの隙間にだって入る」
三人と別れて、一度自分の部屋に引き返し、掃除用具を探し出し、屋敷を歩む。
階段を上がったところに、歴史を感じる大きな鏡。その前に立ったときオリヴィアは、本来そこにないはずのものを見た。
青さすら感じるほどの真っ白な肌。手入れの行き届いた黒髪。すっとまなじりの上がった、一重の目。
鼻も唇も小作りで、どことなく小動物のような雰囲気がある。
瞬きしたらそれは消えた。そこには普段通りの、見慣れた自分の顔がある。
「……カミラさん?」
鏡は何も語らない。ただの古い鏡だ。
磨きこまれて光るそのふちを、そっと撫でた。
ああ、彼女はまだこの屋敷の中なのだとオリヴィアは思った。
呪ってしまったがゆえに、彼女もこの屋敷に縛られている。呪いというのはそういうものなのだろう。
彼の夫アードルフはおそらく50歳で死んだあと天の国に上り、ひょっとしたらそこでもう新しい真実の恋に巡り合っているかもしれない。そういう人はだいたい、どこへいっても同じことをするものだ。
廊下を掃き、窓を拭いた。カミラのことを考えながら。
花が好きだったカミラ。
夫に冷たく当たり、愛を失い、夫が愛するものを呪ったカミラ。
帰らぬ夫を待ち、顔を合わせれば冷たくしてしまって、心はますます離れていく。
そこに愛人と隠し子。妻にばれないよう隠すような気遣いすら失った夫。
どうしても思考がカミラ寄りになってしまうのは、オリヴィアが女であるためか。
「カミラさん」
オリヴィアは見えぬ彼女に語りかける。
返事はない。吹き込んだ風が、ふわりとレース飾りを揺らしている。
「ではこちらにサインを」
「はい」
目の前であっさりと揺れる羽根ペンを、クラースがおろおろしながら見守っている。
婚姻の届だ。クラースの分が書き込まれた状態のそれに、オリヴィアはさらさらと筆を走らせている。
「字まで美しいな君は! それよりいいのかそこに名前を書いて! それを出したら君は私の……私の……」
「妻でございますわね」
「妻」
「新婚でございますわね、クラース様」
「……新婚」
書き終えそっと見上げた。すっごい見られる。
少年みたいにきれいな水色の瞳。普段から言葉とは裏のことを考えている人に、こんな目はできない。
古い文書の謎を読み解くためにじっと文字を見つめる彼の目は、きっと真実のためだけにあるのだろう。
今日もよれよれの彼の襟を、そっとオリヴィアは撫でた。
「明日からわたくしにアイロンをさせてくださいませ。夫の襟をこんな風にしていたら、妻失格でございます」
「……」
「ね?」
「はい」
「髪も切るか結ぶかいたしましょう。これでは目に悪いわ」
「はい」
「どうしましょうなんでも聞いてくれるわ」
「幸せのあまり放心状態ですな」
はっはっはと届を折り畳み、トビアスが胸ポケットに入れる。
「では提出してまいりましょう。ご結婚おめでとうございます坊ちゃん。いえ旦那様。おめでとうございます、奥様」
「痛み入ります」
「ささやかですが今夜は夕飯を豪華にするようジェフリーに言ってありますので、どうぞお楽しみになさってください。旦那様も、夕飯には少しはましな格好でお越しください」
「そんなものあっただろうか」
「オールステットのクローゼットにないはずがございますまい」
「見た覚えがない」
「ああ仕方ないコニー。適当に何か見繕ってやってくれ」
「わかりました」
「あったかなあ」
「ありますよ」
トビアスが部屋を出た。クラースは相変わらずオリヴィアを見ている。
「では、邪魔者は去りますのでごゆっくり」
コニーもそう言って部屋を出た。
彼らの仕事部屋の横の部屋、軽食を食べたりする休憩場だ。
「座ろうか」
「はい」
横並びにソファに座る。
「オリヴィア嬢」
「なんですか? あなた」
「いい響きだな! ……私の呼び方はこれまでどおりでいい。君の身上書を拝見した」
「はい」
「君はアシェル家の、実の娘ではないんだな」
「はい」
「なのに、何故」
「何故とは?」
こちらを見つめるクラースを、オリヴィアは微笑みながら見つめ返した。
「養子に親を愛する権利はない。そうおっしゃりたいのかしら、クラース様」
「……すまない」
「愛しているからです。ほかに理由はございません」
「……」
「短い時間だけでも、あなた様の妻にしていただけることを嬉しく思いますクラース様。どうぞ存分に愛してくださいませ」
「……愛さない。断じて」
「そこをなんとか」
「愛さない」
「もう一声」
「愛さん!」
そう言ったクラースに、そっとオリヴィアは倒れこむように抱きついた。
「なんだこれすごいいいにおいがする! 柔らかい!」
「こういう手もいいですわね。もう夫婦なのですから何も問題ございませんクラース様」
「あたたかい離れたくない……いやいかんオリヴィア嬢!」
くいと両肩をつかまれ、そっと押すように優しく身を剥がされた。
「君には12月まで報酬分の仕事はしてもらうが、君を娼婦にするつもりはない。今後こういうことはやめてくれ私にだって限界というものがあるまさに今だがな!」
肩をつかまれながら、男性の手って大きいのねとオリヴィアは思っていた。
持っている力の大きさが違う。それを今彼はオリヴィアを押さえつけるためではなく、娼婦にしないために使う。
平気な振りをしているが、オリヴィアだって全く経験のない、慣れないことをしているのだ。内心はドキドキ、ハラハラしている。
その手が向けてくれる優しさに、ほんのりとオリヴィアの胸が温かくなった。
「……わかりました」
「えっ?」
「え?」
「いえ、何も」
そっと身を戻した。
「失礼いたしました。お仕事にお戻りくださいクラース様。豪華な夕食、楽しみですね」
「ああ」
「出来る限り身を飾ります。楽しい初夜にいたしましょう」
「今後も寝室は別だ。私は穏やかな眠りを望む」
「つれないお方」
「いたずらっぽい顔も可愛い。では仕事に戻ろう。今とても楽しいところだ」
「どのように?」
クラースがオリヴィアを見た。よくぞ聞いてくれたという風情だ。
「長年戦術書と思われていたものの中身が、読み解いてみたらなんと料理のレシピだった。だがよくよく読めばあれはやはり戦術書なのだよ。秘密の、暗号化された。これから同じ時代の、類似するものの解法を当てはめ応用しないといけない。山ほどの言葉の中から、似たものを。同じような癖があるものを探し、読み解く」
先ほどとは違う方向で、目が生き生きとしている。
やっぱり夢見る男の子みたいな様子を、オリヴィアはお姉さんのような気持ちで見つめた。
好きなことがあって、それにふさわしい家に生まれ、適性があるほど幸せなことはないだろう。
「クラース様が楽しそうで嬉しいです。ですが熱中しすぎて夕飯をお忘れになったりしないでね。お体に障ります」
「コニーもトビアスも絶対に食べさせようとしてくるからな。まあうちに短命が多いのは、実際そのせいかもしれない」
「ええ。ごはんと睡眠だけは何があっても削ってはなりません。ご自分のために」
「……わかった」
こっくりと頷く。やっぱり子どもみたいだ。
6歳で母親を失い、それ以降女性に触れていないのだ。オリヴィアはもはやお姉さんどころかお母さんの扱いかもしれない。
いいのだ。少しずつ、少しずつ、とオリヴィアは自分に言い聞かせる。
クラースを見送った。よしと気合を入れて歩き出す。
結婚した日だ。お披露目はないけれどせめて花嫁さんらしく自分を飾るため、オリヴィアは張り切っている。




