2 オールステット家屋敷にて
「ご確認ください」
コニーが差し出した書面を、オリヴィアは確認する。母の字だ。
サインのインクが滲んでいる。
「……母は泣いておりましたか?」
「……はい」
「母にはなんと」
「あなた様を見初め、我が家の妻にお迎えしたと説明しましたが……信じられるわけもない」
「ええ。本当のことですのにね」
理由なくポンとそんな大金を支払う人間などいない。
前触れもなく、あいさつもなしにある日突然嫁に行く娘もだ。
「終わった後の金貨と一緒に、わたくしの手紙をお願いしてもよろしいかしら」
「……わかりました」
「そんなお顔をなさらないで。わたくしが望んだことです」
「ご家族を愛しておられるのですね」
オリヴィアは微笑んだ。それはオリヴィアにとって、世界で一番大切なものだ。
コニーも微笑む。そして案内され連れられた部屋で、オリヴィアは危うく淑女にふさわしくないはしたない声を上げそうになった。
服、服、服。靴に髪飾り、アクセサリー。化粧道具に化粧品。
かつてオリヴィアが持っていて、手放したもの。
この世の女性たちが喉から手が出るほど欲しいだろう高級品が、ずらりと広げられている。
「お好きなものをお選びください。わたくしどもが選ぶよりご自身でお選びになったほうがいいだろうと、店に出張してもらいました」
体にぴったりとした服を身にまとう紳士が、客商売の染みついた笑顔でオリヴィアを迎える。
オリヴィアは彼を見た。今自分の目は野生の動物のごとき光を放っているだろうと思う。
ええどうぞどうぞご遠慮なくと彼の目が言う。よくもまあこんな高いのだけより抜いて持ってきたものだという強欲な品揃えに、胸が熱くなる。商売っ気の強い人が、オリヴィアは大好きだ。戦友のようにすら感じる。
冬服まででその先がないことに気づき、それもそうだわとオリヴィアは薄く笑った。
もう春は来ない。来ては困る。金貨をもう50枚、どうあっても家に届けてもらいたい。
本当ならこの分の代金も彼らに届けてほしいところだが、それでは約束が違う。
いずれ死ぬ女に金をかけるのはやっぱり、『後味』のためだろう。オリヴィアが気持ちよく生き、気持ちよく死ぬように。彼らが今後も、気持ちよく生きていくために。
「ではこれとこれ。もう少し深い色はないかしら。ああ、素敵。この手触りはミシェラン織でございますね」
「お目が高くていらっしゃいます、奥様」
うふふと笑う。二人とも相手の目が笑っていないことに気づいている。
「こちらはこのぬめるように光る生地が素敵。露出が少ないわりに、体の線が強調されますね」
「いやまったく目の毒でございますな」
オリヴィアの楽しいショッピングが続いている。
「おお、美しい」
「ありがとう」
「おー……」
自ら髪を結い上げ、化粧を施し、買った服の中から深く上品な赤色の服を選んで身にまとったオリヴィアを、トビアスとコニーが感嘆の声で迎えた。
露出は多くない。やわらかで、とろみのある生地だ。
艶のある栗色の髪は高すぎない位置に結い、うなじを強調。長年たっぷりと手入れをしてきた肌は、ここひと月の生活でも荒れずになめらかなまま残ってくれた。
大きく形のいい深い緑の瞳、柔らかい桃色の頬、透き通った白い肌に、赤い唇。
オリヴィアは美しく生まれた。そして常に、美しくあるための努力を怠らなかった。常に父と母の自慢の娘でありたかったから。
作法も完璧。語学も得意。商売のためにと必死で勉強したから算術もできる。オリヴィアはこれまで、自分の価値を上げるための努力を怠ったことは一度もない。
「出会いはどうします? 廊下の角でぶつかりますか?」
「階段から降りますか?」
「普通に参りましょう」
仕事中に邪魔をするのは印象が悪いしオリヴィアもやりたくないので、軽食の休憩時間を狙うことにした。
別にインパクトはいらないだろう。普通に互いを知り合って、少しずつ距離を縮めていけばいい。12月まではあと半年。長いような、短いような。
扉の前に立ち、ドキドキした。意外に思われるかもしれないが、オリヴィアは恋を知らない。父の言う人に素直に添おうと思っていたから、これまで男性には近寄ってこなかったのだ。
「では参りますぞ」
「はい」
開いた扉を、トビアスについて歩む。
中にいた男性が何気なく顔を上げ、オリヴィアの存在を認めた。
肩ほどの長めの銀髪。少し目にかかっているのが気になる。結ぶか切るかすればいいのになと思う。
そう思ってしまうほどの、整った顔だった。家にこもって書ばかりと聞いていたから、不健康そうな人か、太っちょかと思ったがそんなこともない。男性にしては色白かもしれないがすごく普通の人だ。普通の、年上の男性。座っているからわからないが、背が高そうだ。
よかった、好きになれそうとオリヴィアはホッとした。少なくともあのヘロヘロの襟にアイロンを当ててあげたいと思えるくらいの好意は初見でも持てる。
彼の水色の目が見開かれ、オリヴィアに釘付けになっている。逆に少し隠してほしいくらいの、釘付け。
「……コニー」
「はい」
「この可愛い生き物はなんだ」
「オリヴィア嬢。クラース様の婚約者でございます」
「……」
ガターンとクラースが立ち上がった。やっぱり背が高い。どうするのかと思えば、彼はカーテンに顔からつっこみ自ら巻き付きにいっている。
「無駄なあがきはやめろクラース様! どうだ可愛いだろうオリヴィア嬢! もう頭に焼きついちゃっただろう!」
「見てない! 私は何も見てない! さっきの可愛い何かは幻覚だ!」
「嘘つけ目を閉じてももう心で見えてるくせに! 瞬殺で一目惚れしたくせに!」
「よせコニー! 私にだってプライドというものがあるそのぐらいにしてくれ!」
楽しそうな人たちだ。
オリヴィアはカーテンに歩み寄った。
「クラース様」
「……」
「お初にお目にかかります。オリヴィア=アシェルと申します。先日破産した商社、アシェル家の娘でございます」
「……」
「お会いできて嬉しいです。クラース様」
「……君は」
「はい」
「あの呪いのことを知りながら、この家の門をくぐったのか」
「はい。喜んでお受けいたしました。お金が欲しくて」
「……」
カーテンから顔が抜けた。子どもみたいだ。乱れた髪を直してあげたいなと思う。
「金を渡すと、その子に言ったのか」
「はい。前金金貨50、成果報酬50」
「わたくしアッペルトフト娼館に入ろうとしておりました。お金が欲しくて。そこでお声をかけていただきました」
「ご病気の母君と、未成年の兄弟がおられ、家には食べられるものもないそうです」
「……」
クラースが歩いてくる。すっごい見ている。
彼が椅子に座ったので、オリヴィアも座った。促され正面に。
先ほどよりも近くでじっと見てから額を押さえ、クラースが絶句している。頬が赤い。
「…………なんていうかもう全部可愛いんだな、女子というものは」
「オリヴィア嬢は女子のなかでも最高峰ですクラース様」
「ええ。なかなかおりませんよこんなかわいらしいお嬢様は」
「ありがとうございます」
「だが私は可愛いなと思っているだけだ別に愛してない今はちょっとびっくりしているだけだ」
「息継ぎしましょうよ」
「これから、ゆっくりで結構ですわ、クラース様」
「待てよく聞けば声まで可愛いなやはり即刻帰りたまえ。今なら多分まだギリギリセーフだ。金は渡すから」
「もうアウトだと思うけどな」
「いいえ。わたくし理由のないお金はいただけません。父からそういう教育を受けましたの」
「律儀でしっかり者。なんてちゃんとしたお家のお嬢さんだ」
「ありがとうございます」
「お茶入れますね」
「嫌いなものはございませんかオリヴィア嬢」
「はい、なんでも美味しくいただけますわ」
「とても健康的だ」
「もうアウトだって」
おいしそうなお菓子がテーブルに並ぶ。
ああ、このお菓子を家に持って帰りたい、とオリヴィアは思った。
久しぶりの甘いもの。あの子たちがどんなに喜ぶだろうと。
「どうしたオリヴィア嬢、悲しそうな顔をして」
「見すぎだろこいつ」
「いえ、なんでもございません。いただきます」
「食べ方まで美しいときたか」
「見すぎ見すぎ」
案外それほどの上下はないらしく、4人でお菓子を頂いた。
「御屋敷には何名の方がいらっしゃいますの?」
「あとは料理人のジェフリーと、なんでも屋のヨーゼフじいさんです」
「それだけ? こんなに大きなお屋敷に?」
「まあ、食事と風呂と洗濯と掃除くらいですから。洗濯は外に頼んで、来客もめったにありませんし。基本的に自分のことは自分でですね」
「女性は入れられないのでメイドもおりません。不便ですいません」
「いいえ。明日からわたくしもお掃除いたします」
「こんなに可愛いのに働き者なのか。感心だな」
「褒め言葉しか言ってないな」
「瞬殺って言ったでしょう」
思ったより和やかに、食事は続いている。
「……待ってくれ。彼女はこの屋敷に住むのか?」
「ええ。何か問題でも」
「問題大ありだそんなことしたら好きになるだろう」
「もうなってるじゃないですか」
「まだだ。断じて好きにはなっていないちょっとびっくりしているだけだ」
「寝室はご一緒ですか?」
「何言ってるんだそんなわけがないだろう。なあコニー。そうだろうコニー」
「一応一室整えてございますが、どうしますクラース様」
「そちらを使ってくれ。そんなことをしたら私が眠れるわけがない。仕事に差支えが出る」
「それはいけませんね。ではそのお部屋を使わせていただきます」
「えっ」
「残念になるくらいなら言わないでくださいよ」
じっと、やはりクラースがオリヴィアを見た。
男性に見られるのはある程度慣れているものの、ここまで隠さずに見られるのはめったにない。ちょっとそわそわしてしまう。
「女性をそうじろじろとみるものじゃありませんぞ、クラース様」
「勝手に目がそっちに行ってしまうんだ。なんて不思議な現象だ」
「恋っていうんですよ、それ」
おもしろい三人だ。年代が異なるのにくだけていて、呼吸がぴったり。仲がいいんだなあと思う。
三人を眺めながらオリヴィアは思う。もっとこの人たちを知りたいと。どうせ死ぬならあたたかい場所で、楽しい思い出を作ってから。
「花壇もありましたけど花をお植えではないのですね。何か育ててもよろしいでしょうか」
「……」
「……」
「……」
こほんとトビアスが咳をした。
「咲かんのです」
「え?」
「カミラの呪い以降、どんな花を植えても、つぼみのまま枯れるのですよ。カミラはあそこで薔薇を育てておりまして。自分の好きなものを、誰にも譲りたくはないのでしょう、あの女は」
「……」
「恐ろしい女です。世のあらゆるものを呪って死に、未だに呪い続けている。執念深い悪鬼だ」
「……植えてみるのは、よろしいですか」
「残念な思いをしてもよいのなら」
「では、チャレンジしてみましょう。何かお仕事があったらやらせてください。何もしないのは性に合わなくて」
「働き者だ」
「もういいよ」
そうしてクラースは仕事に戻った。最後まで彼はじっと、オリヴィアを見ていた。
「お部屋に案内いたします。急なことで、お疲れでございましょう」
「はい。いろいろなことがございました」
「そうですね」
コニーについて、廊下を歩む。
「いかがでした。我が家の主人は」
「面白い方ですね」
「普段はそんなことないんですけど、まさかあそこまで面白くなるとは」
「お役に立てるよう、がんばります」
「……ありがとうございます」
「棺桶にはラパルの花を入れてくださいませ。好きなのです」
「あんな小さな花でよろしいのですか」
「ええ。かわいらしくて、けなげではありませんか」
「わかりました。冬の花ですしね」
「ええ」
ちょうど部屋に到着した。
「素敵……」
家具を順に見まわし、オリヴィアの頭の中でジャラララッと総額が出そろう。わあお金持ち。
「あとで食堂とお風呂にも案内いたします。夕飯の時間になりましたら呼びに来ますので、ゆっくりなさってください。何か必要なものはございますか?」
「あ……」
「はい。ご遠慮なさらず」
「……もし、本があれば何冊か。物語のものを。娼館では読む暇もないだろうと、思い切って置いてきてしまったものですから」
「『もし、本があれば』?」
いたずらっぽくコニーが笑った、オリヴィアも自分の失言に気づき、笑う。
「本しかございません。ここはオールステットでございます」
「そうでした」
「わかりました、何冊か。ほかは大丈夫ですか」
「はい。お手数をおかけして申し訳ございません」
「いいえ。どうぞおくつろぎください。我々にできることなら、なんなりと」
「お気遣いに感謝いたします」
頭を下げて、オリヴィアはコニーを見送った。
ソファに座り、今日のことを考える。
とんでもない一日だった。
眠気が襲ってきた。昨日の夜はさすがのオリヴィアもなかなか眠れなかったのだ。
オルゴールの音が聞こえる。『永久』。よく結婚式で演奏される曲だ。
音が一個飛んでるわよ。オルゴールさん。
そんなことを考えながら、オリヴィア=アシェルは心地よい肌触りのソファに沈んでいった。