10 満月の夜と朝
そして、満月の夜。
「本当にこちらでお眠りになるの?」
「ああ」
「風邪を引いてしまうわ」
「こんなに厚く重ねれば、寒くもないだろう」
「そう?」
オリヴィアの部屋の前に、ミノムシのようになったクラースが横たわっている。
「ではまた明日の朝お会いしましょう。旦那様」
「ああ」
扉に手をかける。
「オリヴィア」
「はい」
オリヴィアは振り向いた。
じっと、水色の目がオリヴィアを見ている。
「……なんでもない。暖かくして眠ってくれ」
「はい。クラース様も」
扉を閉め、寝台に上がった。
緊張して眠れないかと思ったが、案外あっさりと、オリヴィアは眠りに落ちた。
朝
この家の主人クラース=オールステットは一睡もできずに寝具にくるまり、その扉が開くのを、今か今かと待っていた。
愛しい妻。可愛らしい彼女の姿がそこから現れるのを、今か、今かと。
「……まだですか、旦那様」
「……まだだ」
「……」
同じ状況だったらしいトビアスとコニーが目を赤くして歩み寄って来た。クラースは立ちあがる。
「……開けるか」
「……」
「……」
嫌な予感に押し黙る男達の前でノブが動き、扉は内から開いた。
大理石のように滑らかな色白の頬。深みのある緑色の瞳、いつ見ても微笑んでいる柔らかな唇。どうしたらこんなにつやつや光るのだろうと不思議になる、美しい栗色の髪。朝日の中にそれらが照らされ、きらめきながら浮かび上がる。
「おはようございます。お寝坊して申し訳ございません」
耳に心地いい高さの、柔らかくまろやかな声。
クラースは一歩、足を踏み出した。
クラースを見上げいたずらっぽく微笑む彼女の体を、強く抱き締める。
「おはようございます旦那様」
「おはよう。オリヴィア」
くすっと笑って彼女がクラースの目元を優しく撫でた。どうやら自分は今泣いているらしい。
「オリヴィア」
「はい」
「君にずっと言いたいことがあった」
「なんでしょう」
自分を見つめる優しい瞳を見据えて、クラースは言う。生まれて初めて。
「あなたを愛してる」
とろけるような可愛い可愛い顔で微笑み、妻は答えた。
「嬉しい。……ずっと、それを言葉で聞きたかったの」
「……」
腕に抱く。もう離す気はない。
お家に帰りたいと言われても口説き落とす。世界の新旧、全ての愛の言葉を並べてでも、この人に好いてもらいたい。
「クラース」
「はい」
「わたくしもあなた様を愛しています。このまま妻として、ここにいてもいいかしら」
「……はい。お願いします」
「どうして敬語なの」
クラースの妻が腕の中で笑う。可愛い。好きだ。愛している。もう、そう言っていい。
クラースはもうこの愛しい人を、心から愛していい。
「奥様!」
廊下の先から誰かが走って来た。ヨーゼフだ。
「どうしたの?」
「庭の花が……」
もう離さないと思っていた腕を振り切って走り出した妻の後ろを追いかける。
オリヴィアは走る。
庭に出た。小さな冬の花、白・青・赤の花弁がそれぞれ揺れている。
「ラパルの花……」
コニーが呟き、オリヴィアを見た。
「棺桶にと言っていた、あの。自作されておいででしたか」
「お庭にあれば手っ取り早いと思い。必要なくなったけれど。……ああ、やはり」
オリヴィアは天を見上げた。
呪いを行ったものもまた、呪われるのだろう。
カミラは花が好きだった。それだけが彼女の、心のよりどころだった。
だからこそそれは奪われた。呪ってしまったから。
ようやくこの男たちの屋敷から、自らがかけてしまった呪いから解放され、天に消えたその魂を想う。なんの咎もなく突然にこの世から奪われた、クラースの父の前妻とその腹の中の子のことを思えば、それは仕方のない、報いであると思うしかないのだろうか。
「クラース」
「はい」
「わたくし万が一あなたが浮気なさったら、まどろっこしいことなくいきなり頬を張りますので、よろしくお願いいたします」
「わかりました。絶対しません」
「わからないわよ。真実の愛に出会ってしまうかも」
「……もう出会った」
手を取られ、そっと握られた。
「出会ったよオリヴィア。これまで自分の全てだった屋敷を燃やしたくなるほど焦がれた、言葉では言い表しがたい、何かに」
「……」
風が吹いた。
オールステットの屋敷に朝日が満ちる。
ラパルの花が可愛らしく、わわわわ、と揺れている。
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