太一の凝立
10月に選考結果発表のあった第214回短編小説新人賞に応募した小説です。
集英社webマガジンコバルト様に応募させていただき、結果は「もう一歩の作品」という評価をいただきました。
もっと頑張りますのでご感想・ご評価など頂けましたら励みになります。
よろしくお願いします。
触れるべからずという完全な禁止の立札を前にして藤堂太一は凝立していた。その酷く古びている立札に墨で書かれている文字は薄れて掠れている。辛うじて読める程度なのに打って変わって強烈な印象を太一に与えてきた。
その立札は柵に囲まれた苔むした小さな岩の前に立てられていた。いつからそれがあるのか太一は知らない。いや、太一だけでなくその地域の大人たちでも知る人は数少ない。
その柵の中で太一の同級生である三人が彼を見ていた。そして三つの口が開くと揃って言った。
「太一も早くこっちへ来いよ。ビビるなよ、こんなモンに」
彼らが容易に乗り越えた柵を乗り越えられない太一は三人が柵の中で自由に振舞うのを驚きと焦燥に駆られた複雑な心境で見ている。太一を含めた四人の仲間の中で最も背の高い小山田が初めに柵に手をかけて乗り越えた。残りの二人もそれに続く。太一は後に続いた二人が小山田と見えない糸で繋がっているようなごく自然さで動くのを見て強い焦燥感を覚えた。
禁止を記した立札には【往時よりこの岩に触れた者は気が狂うと言われている。触れるべからず】と記されていた。
太一の足が震えていたのはすぐにも動けという彼の理性と留まる本能とがせめぎ合った結果だろう。佇んでいる彼に出来る事はその震えを隠す事だけだったが小山田たちにはそれが知れていた。彼らは太一を試しているのである。
試されている太一はそんな事とは露と知らず柵に手をかける事も出来ないままこの恐怖に侵されがちな性根を恨んでいた。どうって事ないとどうして言えないのか。
動けない太一を笑うように小山田と竹田、米山はその柵の中で自由に振舞った。ごく簡単に石に手で触れたし、足で蹴りさえした。
岐阜県高山市に流れる宮川沿いに一の鳥居と呼ばれる巨大な鳥居がある。それを潜った先の参道を進むと八幡神社があるがその境内の脇に酷く急な長い階段があった。その階段は木々の間を歩かせて小さな社へと少年たちを導いた。どうやら小山田が誰かに聞いて見つけ出したこの秘密の隠れ家は大人の目から隔絶されている。木々が辺りを囲み、木漏れ日は少年たちの遊び心の一端しか照らさない。
人目のつかないこの場所で少年たちは限りなく自由だった。
やがて小山田たちの笑い声が静まると誇らしげに柵の中を出た。
「なんだよ、本当に太一は意気地なしだな」
「そうだよ、そうだ。こんなモンにビビっちまってよ、情けねえなあ!」
「お前、こんな立札に書いてある事を信じてるのか?」
小山田が小馬鹿にした様子で尋ねるが答えられない太一は全く信じていないのに彼の取った行動が「信じていない」と言うには説得力がないのを理解しているのである。それを口にして反論されるのが怖かった。責められるだろうし、再度実行するのを求められるかもしれない。
「帰ろうぜ」
太一の答えを待つ間もなく小山田が言うと別の言い訳めいた答えを探している太一を置いて三人は階段を下って帰路へと着いた。太一は急いでその後に付いて行ったがこの時には自分の足が躊躇いもなく動くのに失望していた。
帰り道、徐々に遠ざかる小山田たちの背中を見ながら太一は「次にまたこうした機会があるのなら絶対に躊躇わない」と固い決心をした。
その固く結んだ決心に呼ばれたように機会はすぐにやって来た。
四人で下校していたある日、宮川にかかる連合橋の上を通ると車道の脇をのそのそと歩く亀が居た。誰かのペットが逃げ出したと見受けられるその亀は握られた拳よりも大きくてその動きは酷く鈍かった。走る車は亀に気が付いて避けたり、気付かないまますれすれを通るなどして太一の肝を冷やした。あのままでは遅からず轢殺されるだろうという結末が思い浮かぶ。
すると小山田が新しい遊び道具を見つけたと言わんばかりに喜んだ笑みを見せて言った。
「あの亀が潰されるか賭けようぜ」
小山田が笑っている。彼がすぐに「潰れる」に賭けると竹田も米山もそれに応じて「潰れる」に賭けていく。
そして太一の番がやって来た。三人の笑った目が太一を見ている。のそりのそりと歩く亀はどこかを目指しているのか車道を突き進んでいく。
太一は亀をじっと見ていた。全員が「潰れる」に賭けてしまうと賭けにならない。勝負を成り立たせるには「潰れない」に賭ける必要があるがそれではきっと負けてしまうだろう。ただ太一は賭け事よりも亀の事が気にかかってそれどころではなかった。
彼は自分で理解している以上に恐怖していた。動物の命が奪われる瞬間を見ようとしている事に耐えられない。そしてその瞬間は間違いなく訪れるだろう。あの亀の甲羅が潰される光景が太一には目の前に現れているように具に見えていた。
太一の足が震えているのを認めて小山田が笑っている。恐怖に支配されている彼の心は張り裂けんばかりに音を立てていた。
そうしている間にも一台の車がやって来た。時速五〇キロは出ているだろうに太一にはそれよりもっと遅い速度に見えていた。それがまさしく最後の瞬間の訪れに思えてならない。速度を保ったままで迫って来る車から伝わる振動を亀は感じ取っているに違いない。車の運転手は車道を歩く亀に気付いていなかった。避けようとも、減速しようともしないで通り過ぎて行った。
その瞬間に太一は緊張に圧倒されて仰け反って倒れそうになるのをなんとか堪えるのだった。そして恐怖に支配された真っ黒に染まった心の中心に真っ白な「助けられたのに!」という強烈な言葉が浮かび上がって来た。心内の恐怖が一瞬で後悔へと転じたのを感じ取った。
亀は無事だった。小山田たちは「すげー」「こいつは面白いぞ」などと言って興奮している。
その傍らでホッと安心した太一は途端に突き動かされたように駆け出して甲羅に閉じこもった亀を右手に引っ掴んでいた。
宮川の河原へと続く橋の脇にある階段を下って行くのを呆気にとられた三人が眺めていた。その表情が徐々に冷淡なものへと変わっていくのを誰かが見ていたかもしれないが太一だけが知らない事だった。
川の水は冷たかったが全く気にしていない太一は目の前に現れた死の舞台から小さな命を助け出す事で頭がいっぱいだった。未だに甲羅に閉じこもったままの亀の体の半分ほどを水に浸けて安全である事を教えるとおずおずと亀の四肢と頭部が甲羅から出て来た。
太一はそれを見届けると甲羅から手を離して水の中を滑っていく亀の様子を見守った。川底に辿り着いた亀は動かない。ただ頭を出しているのを見ると安心して居るように見えるので太一は胸を撫で下ろした。きっと自分は亀以上に安心していると思う彼の目には優しい光が宿っている。
後悔が安心に変わって正しい事をしたという正義感に心が初めて満たされたのが誇らしかった。そうした時の少年の横顔の美しさは類を見ない。
そうしている間にも一台の車が橋の上を通った。橋の下にいる太一にはその音が酷く響いて来たが亀はもう安全な場所にいる。
すると途端に残して来た三人の事を思い出して階段を駆けあがった。
小山田たちはすでにいなかった。
歩道にはいつ下ろしたのか分からない太一のリュックが残されている。小山田たちの姿を探すために辺りを窺いながらリュックを背負い直すと彼は独りぼっちになってしまった事を認めた。
彼の傍には誰もいない。彼を安心させていた正義感は雲散霧消して後に残った心の空虚感がより寂しさを感じさせた。
橋の上から彼が助けたあの亀の様子をもう一度だけ眺めた。川底に沈んでいるその姿は石に紛れて見分けられないので太一には亀が見えない。それが言いようのない喪失感を抱かせた。川べりに再び下りて彼の行動の結果の表を見ようとしたが友達が居なくなっている事に傷ついてどうにも出来そうにない。
太一は小山田たちの遊びの邪魔をしたのみならず彼らと相容れない事を示してしまった失敗を認めて恐怖を源とした後悔が生まれた。それは決してこの消え去った薄情な正義感では拭えないだろう。正義はどこにも残っていなかった。
孤独が彼に恐怖を与えて来る。学校やクラスの中で“孤独”になる事の恐ろしさが募って来る。明日が不安になって夕暮れに染まる川や山々の様子が変に感傷的に感じられた。
太一はあの時の亀の歩みよりも遅々とした歩調で自宅へ辿り着いた。彼はなんとか泣くのを堪えていた。
自分はどうしてこうなんだろう。どうしてこんな性格をしているんだろうかと自問するが答えはない。
情けない自分が嫌いだ。小山田や米山、竹田のようにどうして快活になれないのだろう。
もっと、自分になりたい。理想とする自分になりたい。
ベッドに潜った太一はようやく涙していた。欠伸をして溜まっていた涙の堰を切るとほろりほろりと二粒三粒と流れ落ちた。
やはりそれは誰も知らない涙だった。明日、どうやってあの失敗を小山田たちに詫びようかと考えると胸が詰まる想いがする。合わせた両手を胸に当てながら太一は眠りに就いた。
さて、翌日の朝の事である。太一は学校へいつも通りに登校していたが心底から怯えていた。願わくば就寝中に全てが洗われていてくれさえすれば救われていたのにそうとはならなかった。
ちっぽけな正義感を振るった事を後悔している。それも少しの後悔ではない。心ばかりか体の隅々まで行き渡るような色濃い後悔である。あのまま亀が潰されるのを愉快に振舞って小山田たちと見届ければこんな事にはならなかっただろう。
学校に来るとその後悔が更に強まった。ここには小山田たちがいる。太一の失態を知る人がいる。
教室に入ると小山田たちが太一を見た。まるで見つけたようにハッとしてまじまじと見て来た事が太一には分かった。それでいて太一はいつも通りを装っている。小山田たちが太一を置いて帰って行った事を気にしていないと伝えるように振舞った。
そしてそれは小山田たちに正しく伝わった。気にしていないという彼の素振りは太一がこれまで小山田たちを軽んじていたように伝わったのである。
小山田たちが見ているのを感じ取った太一はまるでクラス全員が自分を見ているように思っていた。太一の失態の全てがみんなに知られているように考えられて太一は身が縮む思いをした。
クラスの中に居場所がない。身が縮むような思いは疑いようもなく実感として表れていた。隅へ追いやられるような感覚は彼に酷い閉塞感を覚えさせた。彼は全くの無抵抗でそれを受け入れていた。かといってクラスの中はほとんどいつもと変わらない日常が広がっている。決定的に違っていたのは小山田たちが太一に話しかけない事だけだった。
たったそれだけで天と地が入れ替わったような変化に太一の恐れと後悔は頂点へと達しようとしていた。まず謝るはずだったのに教室内の雰囲気に圧倒されてそれが出来ない。太一は拳を固く握って真っすぐに前を見るだけでやり過ごそうとしていた。
幸いな事に夏休みがもうすぐやって来る。この場所から少しでも離れる事が出来るのならそれ以上の救いはない。太一は今、はっきりと救いを求めている。誰かが許してくれるのを待っていて法を犯した覚えは無いのに罪の意識ばかりが募ってゆく。この閉塞感と意図的な無視が罰に思われて彼はますます罪を意識するのだった。だが、贖罪の方法は分からない。この罪の贖い方が分からないのだ。分からないからこそただじっと許される時を待つのだった。
時間は過ぎていった。時の流れは無抵抗な少年たちを押し流してゆく。部活動を終えて太一はどぎまぎしながら四人のいつもの待ち合わせ場所へ向かった。
校門の前には誰も居なかった。幾人かの生徒たちが下校して行く姿が見える。太一も紛れもなくそのうちの一人だったが傍には誰もいない。小山田たちは三人で帰ったに違いなかった。
初めて彼は校門をひとりで通り、そして歩き出した。考えは明晰だったが慌てていた。朝から続いていた気にしていないという装いはここに至って脱落しようとしていてもうそれを保ち続ける気力は残っていない。明日も今日と同じように振舞う事は到底できないだろう。
装いが抜け落ちた裸の自分を見られる事はなんとしても避けたかった。こんなところを誰かに見られたら付け入る隙を曝す事になる。それはとにもかくにも良くない事だと思われた。
目の前を歩く生徒たちが「じゃあなー」などと言い合って手を振り振り別れて行く。そんな光景を見た時、別れた生徒たちの背中を左見右見していると彼はうら寂しさを胸いっぱいに感じるのだった。
そしてその時に彼は罪の贖い方を理解した。そう思った時の太一の行動は早かった。
太一は駆け出していた。息が切れて急ぐあまりに足がもつれるのも構わずに彼は走り続けた。向かう先は決まっているので彼は一直線に向かっている。歩行者信号を無視した。下校中にそれが教員に見られたら注意されるが赤に点灯しているのに車が来ないので駆け抜けたのである。信号を守らない生徒がいると地域の人の通報から全校集会が行なわれて注意されたが今は罪悪感が全くない。彼は必要に駆られてそうしたのである。そうして急がなければ逃げられるような気がしてならなかったのだ。
宮川に到着した彼は亀を見つけた連合橋の袂でぜえぜえと息が切れるのを整えている。欄干と膝に手をついて体を何とか支えている様子は病人にさえ見えたかもしれない。
そして彼はあの日と同じ速さで階段を下りていった。リュックはあの時と同じように橋の歩道に置いてある。異なっていたのは右手が軽い事だけ。だが、すぐに重みを感じるだろう。あの日と全く同じ重みを。
川べりに辿り着いた彼は逃がした亀の姿を探した。彼が逃がした水溜まりに亀がいない事が分かると彼は川べりをうろうろと行ったり来たりして亀の姿を探したが見つけられない。遂に彼は川の中へと入り込んで制服も靴もずぶ濡れになるのも構わずにもっと深いところを探し始めた。車道をのそのそと歩いていたあの姿をすぐに見つけられたのに川の中では見つけられないのが可笑しかった。
夕暮れがまた川を染めていく。激しい水音が鳴った。彼が大きな石を持ち上げて放り投げたのだ。泥が湧き出るばかりで亀の姿はない。水面に光が反射してぎらぎらと変に眩しい。
がくりと膝を着いて腰まで水に浸かってしまうと彼は流れる水が自分の腹を境に右へ左へ分かれるのを見ていた。水面に映る自分の顔を透かして見えると微かに笑っているのが目に入ってそっと頬に触れてみた。砂利が付いて濡れた指先がしっかりと彼が笑っているのを伝えて来た。この罪がずっと消えない事が今、分かったのに何が可笑しいと言うんだろう。
すると川の水音に混じって対岸の橋の下から大きな石が地面へ叩きつけられる音が聞こえて来た。二度三度と続けられるその音は橋の下に不穏な空気を充満させた。
太一は腰まで水に濡れて重くなった体をなんとか動かして立ち上がるとその音の聞こえる方へと向かった。歯がかちかちと鳴っている。彼は震えていたがそれは決して水に濡れた寒さからではなかった。
そこにはひとりの小学生の少年がいて石を頭上まで持ち上げてまさに投げ落とさんとしているところだった。
そしてその少年の足元には潰れた亀が居た。
「やめろ!」
太一が叫ぶと少年はびくりと体を震わせて持ち上げていた石を取り落として逃げて行った。
細い腕と丸刈りの頭、つんと鋭い目をしているその少年に太一は見覚えがあった。太一が卒業した小学校にいた生徒だ。太一よりも三歳か四歳は離れているはずだ。
少年の姿が完全に見えなくなると太一は亀に寄り添った。砂浜のような細かい砂の柔らかい地面に置かれるように亀の死体がそこにあったがその潰れた死に姿を太一はただ呆然と見下ろしていた。その姿はあの日、車に怯えていた時に彼が思い浮かべた轢殺された亀の姿と酷似していた。まるでこの瞬間だけを切り取った予見であるかのようだった。
当然ながら涙は流れなかった。すぐに感じるだろうと期待していた重みを完全に失った軽薄な右手は穴が
開いたように空虚だった。
太一はせめてもの情けと思って小さな砂を両手でかき集めて亀の姿を覆った。この死に姿はあの少年と太一しか知らない。堆く砂を盛ると太一は合掌して祈りを捧げてからその場を速やかに去るのだった。
橋の上に来てリュックを背負い直した時に太一はあの少年の姿を探した。どうしてああした行為ができるのか尋ねたかった。たとえ見つけたとしても尋ねる事など出来はしなかっただろうが彼は探すのを止められなかった。
小山田たちだけではないと太一は理解した。自分だけなのだ。あんな時に、亀が潰されそうだと思った時に助けるのは自分だけなのだ。むしろ積極的に潰していくのが普通なのだ。車の運転手たちはただ亀を潰して車が汚れるのを嫌って避けたに過ぎない。亀のすれすれを通った運転手たちも気付かなかったのではなく気付いていたが潰しても潰さなくてもどちらでもよくてただ単に避ける手間を惜しんだだけに過ぎないのだ。
残酷にならなければこの社会は生きて行けないのだ。このかかる大発見は太一の心の奥深く、もう二度と取り出せないほどの深みにまでごとりとたいそう重そうな音を立てて落ちて来た。
そしてずぶ濡れになった制服や靴をそのままに太一は宮川沿いの歩道を歩いて一の鳥居までやって来た。巨大な鳥居の上に数羽のカラスが停まっているのが見える。この宮川沿いのごみ置き場の生ごみを荒らすのを覚えたこのカラスたちは異様なほど黒々としていた。
そのまま彼は参道を通って境内へ着くとあの急坂な階段を上り始めた。眼は決心に燃えている。ぎらぎらと輝いていた。あの日に結んだ決心が、絶対に躊躇わないと心に刻んだ文字が光を放っている。
小さな社の前に到着するとその隣に例の石が鎮座していた。立札もあの日と変わりがない。
【触れるべからず】という言葉は以前ほど強烈な印象を太一に与えなかった。むしろ弱すぎるほどだった。
今ならすぐにも行動できる。夕暮れが傾きを変えてその社の境内を囲む木々の葉の隙間から木漏れ日として射し込んで来ている。境内の地面の色が斑に変わっているのに狂人石の色は変わっていない。
太一はゆっくりと歩み寄って柵に手をかけた。振り返りもしないで彼は身を持ち上げて柵の中へと入ると狂人石を見下ろした。そこからは立札の文字は読めない。どんな文字も、柵という線引きも彼を止める事は出来なかった。
狂人石の尖った頂点に手で触れてみた。これは試しに触ってみたのである。狂った感覚はない。どうと言う事はなかった。手を離して今度はもっとしっかりと触れてみた。やはり変化はない。苔むしたその頂点がもさもさしていて気持ちが悪いと思うばかりだ。
恐れもなかったが達成感も爽快感もない。ただただ無関心に彼はその小さな境内を後にした。もう二度と来ないだろうと彼は思った。
神社を出て再び宮川沿いの歩道までやって来ると一の鳥居の上にいたカラスの姿がないのに気が付いた。もしかしたら彼が砂に埋めた亀の死骸に気が付いたのかもしれない、いやあるいは砂に埋めたはずだが完全に覆っていなかったかもしれないと思った。だが、もうどうでもいいことだった。
亀を埋めたあの橋の下を一瞥すると彼は満を持して自宅へと向かった。
ずぶ濡れになって帰ったのに母親は酷く怒った。すぐにも風呂に入るように促されて彼はそれに従った。身体を洗って湯舟に浸かると彼は湯が浸み込んでくるのを感じた。
この日の夕飯は鳥の照り焼きだった。彼の母親が作った照り焼きの鳥のもも肉の皮はとても上手に焼かれていて非情に美味かった。
何もかもが変わったように思えた。それは自分が変わったからじゃないだろうかと太一は考えた。
眠りに就いた時、欠伸をしてみたが涙は流れない。変化を、進歩を感じる充足感で満ち足りているのは初めての事だった。彼は微笑みながら眠りに就いた。彼は安心しきっていた。明日になんの不安もないと言った真の安らぎが浮かぶこの寝顔をもし母親が見たならば親の幸福を疑いもなく感じるに違いない。
翌日、天気予報は曇りだったのに雨が降っていた。傘をさして学校へ行く太一の足取りは軽い。まるでその先に楽しみが待っているかのように歩いて行く。
学校へ辿り着くと欠ける事なくクラスメイトたちは揃っていた。そして誰も彼もが昨日と変わらない様子で太一と接した。要するに誰も彼に話しかけようとしなかった。だが、太一は全て理解している。クラスメイトたちは全員、自分のために残酷になっているのだ。それがこの世の普通なのだ。太一もまたそれを指摘してはならない。自他ともに対する残酷な心を固く持たなければ生きていかれない事を彼は知っている。
犯した覚えのない罪が今はっきりと由来を提示していた。彼が残酷になりきれなかった過去の贖罪を求められ、罰はクラスの輪からの排除だったのである。それを受けきるのが贖罪となるのだ。
太一はそれを甘んじて受ける覚悟があった。心も、肉体もそれに耐えられる力が今だけ備わっていた。と言うのも彼は完全に心と体を乖離させていたからだ。それが耐える力を与えていたがいずれ限界は来るだろう。ただそれはまだまだ先の事で当分は難なく過ごせるだろうと思われた。
この学校の中での孤独を寂しいと思わなくなっている。
それからの日々はこれまでと同じように過ぎていった。ひそひそと話すような声が聞こえて誰かが笑っている口の端が見える。誰が笑っているのか顔を確かめるような無益な事はしない。ただ太一はこの教室の中で笑っている者たちの数を数えるのだった。自分はあれから一度も笑わないのに。
学期末に彼は通知表を渡された。担任の吉田の角ばった字で太一の学校での態度が書かれている。
[物静かで真面目な姿勢は様々な場面で安心して見ていられますが………]
真面目な姿勢という言葉を読んだ時に太一は教壇の上に立って話をする吉田を真っすぐに見つめた。もし吉田がこの視線に気付いたなら強烈な打撃を受けたに違いなかったが彼は終始太一の視線に気が付かなかった。
太一は実際の教師と生徒間の隔絶に完全に失望した冷たい眼をしている。それを見る人は苛烈な憎悪を感じた事だろう。未来に託すものなどなく、将来に見据えるものもない。太一はただこの教室の中で体がこの教員を見ているのか、あるいは心がこの教員を見ているのか分からない自分だけを感じていた。
そして吉田の言った冗談にクラス中がわっと笑いに溢れた時に体だけでこの場にいると太一は思った。
欺瞞の通知表をリュックの中に入れて太一は学校を出た。学校から持ち帰る物はそれしかなかった。この通知表を今晩にも母親と父親に見せなければいけない。二人もそれを求めるだろうし、これまでもそうして来た。そして二人はここに書かれている全てを何の疑いもなく信じるだろうし、太一も異なっていると言う事も出来ない。残酷になり切れなかったこれまでの評価であるのならこれからは変わっていくかもしれない。そう思う事だけで両親にこれを見せられる。
変わらない帰り道を歩いている最中に太一は通知表を渡す吉田の目を思い出していた。教壇の上に立って話をする口を思い出していた。そうしていると[真面目な姿勢………]という評価が再び思い出された。太一は吉田の目と口に向かって「いいえ、ただ臆病なだけなんです」と今更になって届かぬ思いを呟くのだった。
連合橋を通るのを躊躇ったが太一は意を決して通る事にした。そうでもしなければ彼はまた臆病になってしまう。あの堆く盛られた砂を見て起こった事実を再度認めて決意をより強く固めなければならない。心は見ないようにしているのに体だけはそこへと向かっていた。
果たしてそこにはある少年たちが居た。盛られた砂は争いに踏み躙られていて無数の靴跡に覆われている。
小山田たちではない。黒いランドセルが見えている。四人の少年たちが一人の少年を取り囲んで煽っている。服を掴み、胸を突き飛ばして、足を引っ掛けた。
今、服を掴まれた少年が腕に渾身の力を込めて迫る男たちを押しのけている。その少年は亀を叩き潰したこの場所で手酷い虐待を受けようとしていた。髪を掴まれて上下に頭を振られている彼は必死の抵抗を行なっていてこの多勢に全く怯えていない。
太一は対岸の土手からその様子を見ていた。川沿いに並ぶ桜の太い幹が彼の体を隠している。この状況であの少年に太一の姿が目に入る事はないだろうに彼は強いて見られないように努めていた。
彼の目に映る対岸の光景は具に見えていた。抵抗する少年の飛散する唾すらも確かに見えるようだった。心は助けなくちゃならないと叫んだのに、身体は全くその声を聞かない。
連合橋の上を一台の車が通っていく。奇しくもあの亀の傍を通って太一に後悔を抱かせた車と同じ色と型をしている。それが分かると太一は因果を感じて足の震えが頭髪の先まで上って来るのを感じた。
太一の目は爛々と輝いていた。最後の試験の時が来たのだ。絶対に躊躇わないという固く結んだ決心はいよいよそれを発揮しようとしている。ただ心の片隅にあった空虚が体を突き動かそうと懸命になって激励の言葉ばかりを繰り返していた。
そしてようやくじりじりと足を動かす事が出来た。一歩踏み出した先はあの少年たちから離れてゆく一歩だった。
心がそんなはずがないと叫んでいるがそれを聞こうとしない。この行動こそが最も正しいものなのだと言い聞かせるように歩みが進んで行く。
太一は何度も振り返った。太一と同じようにあの光景を目撃した誰かが止めに入っているのを願いながら振り返るがそんな過ちを犯す者は彼の知る限りいなかった。
そしてもう少年たちの姿が見えなくなるほど遠ざかると彼の抵抗がなくなった足は速く動き出した。この場を離れていつも通りに帰路へ着くのになんの躊躇いもない。ただもう一度だけ彼は振り返った。見えるのは夕焼けに紅に染まる山や建物の姿だけだった。もう何も気にしなくていいのだと思うと彼は心が張り裂ける音が聞こえた気がした。
自分は遂に人並みに残酷になれた。この達成感が彼にいよいよ罪が許される日が来るだろうと予感させる。全てが許される日がやって来ると思うと微笑む事が出来た。
雨が降って来たと太一は思った。頬に水が落ちて来たからだ。そう思って彼方の空を見上げると三羽のカラスが夕暮れへ向かって鋭角に並んで飛んでいくのが見えた。カアカアと鳴くのが聞こえると太一は途端に極度の疲労を感じて一の鳥居の柱に凭れて座り込んでしまった。
明日に楽しみがあったような、いや全くこれと言ってそんな事はなかったような、無根拠の楽しみと苦しみが広がっているような気がして何もかもが億劫になると彼は夜になって何も見えなくなるまで宮川の流れる水面を見つめて過ごした。