<彼女は変わらない>
弟のアルトゥーロから届いた手紙に目を通して、エウジェニオは驚愕に凍りついた。
エウジェニオはカルーゾ侯爵令嬢のジェラルディーナという娘を知っている。なにしろ十年来の婚約者だったのだ。
彼女は不当に婚約を破棄され冤罪で処刑されかけても、エウジェニオに頼まれれば関係の再構築を受け入れてくれるくらい自分を慕っていた。
幼いころのかくれんぼでエウジェニオがジェラルディーナを見つけ出したことがなくても。
マレディツィオーネに惑わされてからのエウジェニオが、夜会でジェラルディーナをエスコートするどころか、婚約者である彼女のために用意された予算をマレディツィオーネに注ぎ込んだせいで、ドレスもアクセサリーも贈っていなくても。
ジェラルディーナはエウジェニオを愛し続けていた。
彼女の自分への気持ちは永遠に変わらない、そう信じていた。
再構築が破綻したのはジェラルディーナが義妹マレディツィオーネの幻影を見るくらい心を病んでいたせいで、エウジェニオへの愛が冷めたり嫌いになったりしたからではない。
むしろ心を病むくらい愛しているのだと、エウジェニオは理解していた。自分との結婚を厭う言葉は嫉妬から出たものだと信じていた。
「なのに……」
そのジェラルディーナが弟のアルトゥーロと結婚することになったという。エウジェニオとの再構築が破綻してから、たったの三年でだ。
エウジェニオには信じられなかった。
心を病んでエウジェニオとの再構築も破綻した彼女は、カルーゾ侯爵家からも縁を切られて平民となった。アルトゥーロとの結婚後も社交界に顔を出すことはなく、領主の妻として領地の運営にだけ関わっていくという。
(アルトゥーロは昔からジェラルディーナに執着していた……)
エウジェニオは思う。
幼いころ、自分に見つけられなかったジェラルディーナを見つけ出すのは、いつもアルトゥーロだった。体が弱いくせにかくれんぼのときは無理をして、彼女を見つけ出すまでは絶対に引かなかった。
そんなアルトゥーロのことだから、ジェラルディーナを無理矢理監禁しようというのではないだろうか。
「ジェラルディーナからの手紙がないのがその証拠だ」
すぐにでも彼女を助けに行かなくては、と決意したとき、エウジェニオの執務室を訪ねて来たものがいた。
国王である父だ。
少し……いや、かなり顔色が悪い。王妃である母にいたっては、最近は寝床から起き上がることも出来ないほど弱っている。ふたりの体調不良は心労のせいだ。
「父上! いえ陛下、どうか私をアルトゥーロの領地に行かせてください」
「弟の結婚を祝いに行きたいと申すか。しかしアルトゥーロはこじんまりとした式を望んでいるし、ジェラルディーナはそなたの顔を見たくはないだろう」
「そんなはずはありません!」
「……」
国王は無言でエウジェニオの傍らに視線を向けた。
再構築の最中のジェラルディーナの瞳が見ていたのと同じ位置だ。
生きていたころのマレディツィオーネの香水の香りを感じたような気がして、エウジェニオは叫んだ。
「やめてください! 陛下まで私の横にだれかが見えるとおっしゃるのですか?」
「いいや、見えない」
国王は力無く頭を横に振る。
「なにも見えないが……伯爵令嬢は最後にあの女が見えると叫んだそうだ」
「……亡くなったのですか」
国王が言う伯爵令嬢はエウジェニオの新しい婚約者候補だった。
妃教育の途中で倒れ、高熱を発してずっと寝込んでいた。
亡くなったのは彼女が最初ではない。ジェラルディーナとの再構築が破綻した後、未来の国王であるエウジェニオには何人もの婚約者候補が宛がわれ、そのすべてが亡くなっていた。
「もうそなたの婚約者を探すのはやめよう。公爵家の人間を王家の養子にするのも諦めた」
エウジェニオとジェラルディーナの再構築が破綻してすぐは、新しい婚約者の話は出なかった。
それよりもエウジェニオを廃嫡して、王家の血を引く公爵家から養子に取ったものを国王にしたほうが良いのではないかという意見が強かった。マレディツィオーネの悪行、そしてそんな彼女に惑わされたエウジェニオへの不信感が強かったのだ。
冤罪で処刑されかけたカルーゾ侯爵令嬢ジェラルディーナがエウジェニオを許し再構築しようとしていたから、彼は首の皮一枚で生き延びていたのである。
しかし、養子候補とされた人間はみんな亡くなってしまった。
今回の伯爵令嬢と同じように王太子教育の途中で倒れ、高熱を発して寝込んだ後で儚くなっていったのだ。
多くのものが死の瞬間に、マレディツィオーネと思しき女の姿を見て怯えている。
弟王子のアルトゥーロを王太子に、という声はない。
今は健康になったとはいえ、かつての彼が病弱だったことはみな覚えているし、国王にするよりも彼には王家の血筋を残してもらったほうが良いと考えるものが多かったからだ。激務の国王は無理でもその父祖にはなれるだろう。
そもそも彼は王位継承権を放棄していた。
王太子や王太子妃を目指さなければ被害がないことに、みんな気づいている。マレディツィオーネがエウジェニオから離れるのは、彼と自分の敵を始末しに行くときだけだ。
今回の伯爵令嬢は、自分なら、と名乗りを上げた女性だったのだが、残念ながら生き残れなかった。
伯爵令嬢が以前からエウジェニオを慕っていたのか、あるいはとても向上心の強い女性だったのかは、だれも知らない。
どんなに徳があると言われている聖職者にもなにも出来なかった。
エウジェニオがいなくなれば良いのでは? という声もあるが、国王はその案を採用しなかった。
息子可愛さもあったけれど、エウジェニオと一緒に排除出来るのかどうかがわからなかったからである。それに目印が無くなって、いる場所すらわからなくなってしまっては避けることも出来ない。
「そなたはただひとりで王となれ。それがその女の望みなのだろう」
「お待ちください、陛下! ジェラルディーナはマレディツィオーネの姿を見ていたが倒れはしなかった。彼女なら、きっと……」
「エウジェニオ!」
「……」
エウジェニオを睨みつけ、国王は告げた。
「わしはジェラルディーナからの手紙を受け取っている。あの子はアルトゥーロを愛し、妻になることを選んだのだ。そなたの跡はアルトゥーロとジェラルディーナの子どもに継がせれば良い」
「わ、私は! 私はジェラルディーナから手紙をもらっていません!」
「そなたには手紙を送るのも嫌なのだと、あの子は書いていた。父である元カルーゾ侯爵にも手紙を出していないようだ」
ジェラルディーナの父は分家の人間に侯爵家を譲り、隠居していた。
マレディツィオーネの母親に移された下の病気で死にかけているらしいが、ジェラルディーナが見舞いに行くことはない。
エウジェニオや元カルーゾ侯爵のジェラルディーナへの気持ちが変わったように、ジェラルディーナのエウジェニオ達に対する気持ちも変わったのだ。
「そんな、そんなはずはありません。ジェラルディーナは変わらない。変わるはずがない。ジェラルディーナは私のことを愛し続けているはずだ」
国王は溜息をついた。
視線がエウジェニオに向くが、その瞳が見ようとしているのは息子ではない。
「変わらないのはその女だけだ」
さっきも感じたマレディツィオーネの香水の香りがエウジェニオを包んだ。
気のせいのはずなのに、はっきりと鼻腔をくすぐる。
真面目過ぎる婚約者の頑張りと期待が重かったエウジェニオは、悪の香り漂うマレディツィオーネに惹かれ、王太子としての人生で初めて知る乱れた行為に溺れた。
それでも疑ったことはなかった。
期待を破ってもジェラルディーナは自分を愛してくれると信じていた。
弟王子に冤罪だと暴かれず、国王と王妃にも止められずに処刑をおこなっていたとしても、エウジェニオはジェラルディーナが自分を愛していると信じ続けていたに違いない。
「どんなにジェラルディーナに忠告されても止められても、その女はそなたに絡みつき離れなかった。……それほど愛されているのだ、もうその女がそなたの王妃で良いではないか。一刻も早くその女を排除する手段を見つけ出すつもりだが、見つからなかった場合は、そなたが逝くとき絶対にその女も連れて行くのだぞ」
「……違う……」
エウジェニオの呟きは、国王の耳には入らなかった。
去っていく父親の背中を見送った後、エウジェニオは虚ろな目で、だれもいない自分の隣を見つめながら呟き続ける。
「……君は私を愛していない。君は最高権力者の女になりたいだけだ」
エウジェニオが彼女を王宮に引き入れても、父である国王はマレディツィオーネに惑わされたりはしなかった。
弟のアルトゥーロも、後に養子候補となった公爵家の人間も。
あの毒花に惑わされたのは、エウジェニオを始めとする愚か者達のみ。エウジェニオは、マレディツィオーネにとって一番都合の良い道具だというだけだ。愛しているのなら、もうとっくに解放してくれているはずだ。
彼女は変わらない。欲しいものは他人のものでも手に入れるし、邪魔なものは押し潰す。
彼女は永遠に変わらない。
彼女は自分以外愛していないから、これからもけして変わることはないのだ。
──エウジェニオを包むマレディツィオーネの香水の香りが濃くなった。