マッチの少女
初めてマッチに火を灯したとき、言葉では言い表せないような感覚が駆け巡ったことを今でも鮮明に覚えている。ようやく掛け算を覚えたぐらいの、小さな頃だった。
指の先ほどもない小さな火はわたしの前で燃えていた。見入っていたことに気づいたのは、根本を持った指が火傷をしてからだった。
火が灯されている間はなんだか安心できて、とても心が和らいだ。でも消えた途端に、どうしてだか不安になった。紛らわすために次から次へとマッチを取り出しては火をつける。夢中になっていた。
最後の一本が燃え尽きても、名残惜しくてマッチの箱を捨てられなかった。それがママに見つかって沢山叱られた。嫌だったのに、指先に冷水を掛けられた。包帯を巻かれ、火遊びは禁止だと何度も言われた。罰としてテレビゲームを三日間取り上げられた。その日の夜は毛布を被っても眠れなかった。わたしの全てが否定された気がして、檻の中に閉じ込められた気分だった。
唯一の支えは痛みだった。火傷がくれる痛みは、今日の出来事が白昼夢なんかじゃないと教えてくれた。水を掛けられても、布で覆われても、痛みだけはどうしようもなく直接伝わってくる。それが妙に心地よくて、ようやく眠ることができた。
あれから少し経って、大きい病院にも連れてかれた。どこも悪くないのに、詳しい検査をいっぱい受けさせられた。不思議だったのは、機械をくぐるばかりじゃなくて、お絵描きをしたことだった。パズルを組み立てたり、間違い探しもした。その時間だけは楽しかった。白衣の人は怖かったけど、お絵描きの時間は優しい人が傍にいてくれた。
大きな病院に行かなくなってからは二人がちょっと変になった。お母さんはキッチンで料理するとき、わたしを近づけないようにしていたし、お父さんは大好きな煙草をやめた。でも、二人はとっても優しくなった。お母さんはお菓子もいっぱい買ってきてくれるようになった。新しく発売されたゲームもその日のうちにお父さんが買って帰ってくれるようになった。毎日がお誕生日だった。でも、あんまり楽しくはなかった。時々マッチをねだっても、二人は悲しい顔をして難しいことを言うだけだった。あなたは悪くない、病気なだけ。そんな言葉を決まって言われた。それを言われるたびに、わたしは病気じゃないと思った。熱もないし、咳も出ない。わたしからすれば二人のほうがおかしく見えた。
私は少し変わっている。自覚し始めたのは、周りの人間が異性やファッションに興味を持ち始めた頃と同じだった。怪訝な目で見られないよう、好きでもないファッション紙を買ったり、下らない恋愛相談に付き合ったりもした。それらに興味がないと言えば嘘になるが、幼い頃に受けた衝撃を前にすると何もかもが霞んだ。でも、そんなことを公言してしまえば、また病院で長い長い検査を受けることになる。そして、変わっていることを良しとしない自分もいた。だから、周囲の人々に合わせた。新しい趣味を作ろうとした。忘れようとした。ちょうど勉強も忙しくなる時期が重なり、徐々に衝撃は薄れていった。ずっと噛んだガムのように。
泥のように滞留する感情も、長い年月を経て渇き切った。忘却まではいかなくても、抑圧する方法を身に付けた。極力原因になるものにも近づかないようにした。両親は未だに心配してくれていて、キッチンは全て電磁調理器に取り替えられていた。最近は神経質になりすぎなんじゃないかと思うときもある。テレビで料理方法が紹介されそうになるだけで他のチャンネルに変えるのだ。敢えて理由を尋ねてみても、相変わらず濁されるだけで明確は答えは返ってこない。だから私も、自分の病気に気づいても話さなかった。両親はひた隠しにしているんだから、わざわざそれを暴かなくていいと思った。辛い育児を乗り越えたかと思えば、我が子が精神病を患っていると医者から宣告される。両親がどれほど胸を痛めたのか私にはわからない。だから私も隠した。両親と私、互いが互いに隠し事をしていた。それは不審感からくるものではないと理解していた。このまま隠して、いつか昔話に花を咲かせるとき、愚痴を聴いてあげよう。完全に干からびるのを待っていよう。
悲鳴と怒号で目を覚ました。カーテンの隙間からは光が明滅していていた。時計を見てもまだ太陽が顔を出す時間ではなかった。遠くからはサイレンが聞こえる。何が起こっているのか、すぐに理解した。
窓の外に広がる光景が脳裏に浮かび、心臓が早鐘のように脈打つ。息が上がる。身体が熱を帯びる。駄目だとわかっていても、止まらなかった。
弾けて飛んで、煌々と輝いていた。私から見たそれは、太陽であり、羽を溶かす灼熱であった。
見惚れていた。目が離せなかった。少なくとも私は、眼前に広がる橙色の海を眺め、幼い頃に感じた衝撃を、もう一度、全身で受け止めていた。渦を巻き、あらゆるものを飲み込んでいく様は、身体の奥深くに刻まれた私の本能を呼び起こした。目を瞑って視界を閉ざしても、心を騙すことは不可能だった。
どれだけの時間が経っただろう。時の狭間に吸い込まれたような感覚だった。でも、そんな夢心地は唐突に幕が降ろされた。
私を強引に引き剥がしたのは父親だった。同時に母親がカーテンを閉める。その瞬間、私は初めて二人に深い憤りを覚えた。また邪魔をするのか。燻っていた暗い感情が一気に溢れ出る。力の限り暴れて、身をよじって逃げようとした。消えかけた熾火でも、薪をくべれば篝火のように燃え上がる。もう自分でも止められなかった。
一定間隔を保ちながら無機質な電子音を奏でていた。ベッドの脇に吊るされた液体はチューブのなかを通って私の身体を蝕んでいく。何本もの管が鎖のように絡みつき、私を縛りつけていた。
瞼を開けると、両親が私の顔を覗き込んでいた。貼り付けた笑みを浮かべ、あたかも心配していたかのように、うわべだけの言葉を投げ掛けてくる。その瞳は怯えていて、化け物を見る目だった。
次に医者が部屋を訪ねてきた。目を覚ましたので問診に来たという。大柄の男を二人も引き連れていた。首から身分証を提げていなければ看護師と判断できないほど、大柄だった。この部屋にいる人間は皆、私のことを化け物のように見ていた。いつ暴れだすかわからないから医者は男を連れてきたに違いない。きっと白衣のポケットには麻酔を隠し持っているはずだ。皆下手だ、隠すのが下手だ。私は違う。今までだって隠し通してきた。自分の感情を抑圧してきた。周りの空気を読んで周りが求める回答を与えてきた。私は決して間違わない。問診を終えると、医者は最後に言った。一時的な発作、明日にはここを出られると。両親はそれを聞いて安堵して胸を撫で下ろす。私も喜んだ。渇き切った感情は薪となり、大きな炎となって燃え上がっていた。
使い道の少なかったお小遣いはずっと貯めていた。貯めようと思っていたのではなく、勝手に貯まっていったのだ。盗まれたところで困るとは思わず、ずっと引き出しの奥に放り込んでいた。家に帰ってからは、毎晩そのお金を持って、両親の目を盗んで家を抜け出すのが日課となった。
まず最初に買ったのはマッチだった。忘れられなかった。宝物を取り戻した気分だった。両手で握り締めながら、人目のつかない公園へ足を運ぶ。昔と同じように、同じ場所で、マッチを箱から取り出す。手が震えてうまく擦れない。何度か試して、ようやく火がついた。
指の先ほどもない小さな火が灯り、瞳の前で揺れていた。心がざわつく。それから、何本も何本も火をつけては地面に投げ捨て、足で踏み消した。
気づけばマッチの箱は空になっていた。うまく思考が纏まらない。こんなはずじゃないと、頭を掻きむしった。
幼い頃に感じたあの感覚は、戻ってこなかった。
それから、色んな物に火をつけた。
雑誌に火をつけた。
服に火をつけた。
ゴミ捨て場に火をつけた。
廃屋に火をつけた。
野良猫に火をつけた。
それでも心は満たされない。どれだけ火をつけても不完全燃焼だった。
頭がおかしくなりそうだった。あれだけ焦がれた想いは叶わず、毎晩家を抜け出しては何かに火をつけるだけの日常。ある夜、人目を憚ることもせずに公園にガソリンを撒き散らした。私はこの匂いが好きだ。嗅いでいると、次第に手足が痺れてくるし、吐き気を催すこともあった。それでも好きだった。ガソリンだけは少しだけ心を満たしてくれる。いつからか手放せなくなっていた。
マッチに火を灯して投げ入れると、ガソリンは勢いよく燃え上がり、煌めく炎は瞬く間に暗闇を退ける。熱と匂いが充満していく様を眺めていると、遠くからサイレンが聞こえてきた。最近はすぐに邪魔が入る。鬱陶しく思いながらも私は公園から立ち去った。
家に帰ってすぐにシャワーを浴びた。着ていた服を洗い、身体に染みついた匂いを落とす行為はいつまでも経っても慣れなかった。私が私を否定するようで、心に走る痛みと苦しみに耐えながら、何度も何度も石鹸も身体に擦りつけた。
部屋に戻って布団を被る。被るだけで、とても眠れる状態ではなかった。ガソリンを染み込ませた布を密封した袋に隠し、匂いを嗅いで気分を落ち着かせようとした。邪魔がこなければもっと楽しめたのに。苛立ちは募るばかりで、今度は物に当たった。中身はほとんど燃やしてしまったタンスを倒したり、壁紙を破いて苛立ちを誤魔化す。いつしかあの二人は、私に干渉してこなくなった。叫んで暴れて、それでも気分は晴れなかった。
足の裏から血が流れていることに気づいたのは、割れた手鏡が床に転がっているのを見つけたからだった。いつかの誕生日に、二人から贈られた物なはずだが、そんなことはどうでもよかった。
部屋の物はほとんど燃やし尽くした。服も雑誌も、なにもかも。それでも、まだ燃やしていないものをみつけた。
隠しておいたガソリンをあるだけ持ち出し、頭から被る。部屋中に立ち籠める匂いだけで卒倒しそうなほどの快感が身体を駆け巡る。ようやく、やっと、望みが叶う。最後の一本は飲み干して、悦楽に酔い痴れた。髪からガソリンが滴り、震える身体を両腕で抱き抱えた。
マッチに火を灯した。それから私は、幼い頃に味わった快楽を全身で感じた。