足りていないから
道端の段ボール箱で鳴く子猫のように、気が付いたら居なくなっていた。
少し寂しいな。そう思った。
そう。少し、だけ。
彼とは、大学の授業で一度、隣に座ったことがあるだけだった。初めてその時に話をしたけれど、とても自然にヒトと話をできる青年だった。
彼は交通事故で亡くなった。
会話をしたのは一度だけだ。大学での成績は大抵、僕か彼が一番だった。会話はなくても、僕たちはお互いをよく知っていた。
「園田、もう今日は帰んのか」
「ああ、そうだね。授業はないし、彼女も居ないし、右井が居るし」
「俺が居るのはいいだろ」
「最低」
僕はこんな冗談をよく右井に言う。彼はリアクションが大げさでからかいやすい。
右井は気にした様子もなく僕の隣に並んで歩く。
「藤田の話聞いたか」
「事故みたいだね。飲酒運転の自動車に突っ込まれたって聞いたけど」
「らしいな」
普段僕たちが藤田について話すことはない。きっと今、いろいろな場所で藤田のことを藤田の他人が話している。亡くなった時だけ話題の種にすることに、少しだけいたたまれない気分になった。
「藤田の話はやめよう。別に僕たちには関係ない」
「園田なんか冷たい言い方だな」
「君の言っていることはよくわからないよ。僕は言葉の温度計を持ってないんだ」
「おまえの言ってることの方がわかんねえよう」
藤田の話をやめて、特に話す言葉も浮かばずに黙って歩いていた。緑の街路樹の陰を黙って歩いていると、子どもがドングリを拾って来るみたいに、右井はどこからか話題を見つけてきた。
「そう言えば、園田もう物理の課題やった?」
「とっくに終わってるよ、提出明後日までだろ」
「そう、俺ぜんぜんやってないんだよな」
「早くやった方がいいね。結構難しいよ」
「でも園田はできたんだろ」
「もう出した」
「いいよな、園田は頭良くて。俺なんか馬鹿だからぜんぜんダメだわ。この間のメディアの中間テストも徹夜で勉強したのにギリギリ六十点だったし」
小石を蹴飛ばしながら、「園田はどうだった」と彼は言った。
僕のすぐ足下に転がってきた小石をつま先でつつきながら「あんなの満点以外ありえない」と答えた。
「うげえ、すげえ」
「何言ってるかわからない」
「わかるだろ」
右井と話すのが面倒になってきて、適当に返事をする。良くあることだ。
「ほんと、何でそんな頭いいんだよ」
「君が馬鹿なだけだよ」
「おい、ヒドいな。てか、それ藤田にも言われたことあるし」
またどうして彼は藤田の話をするのだろう。
「ふうん。藤田、良くわかってるじゃないか」
「ひでえ」
「きっと僕と同じで、右井のことが嫌いだったんだよ」
「傷つくわ」
僕はこんな冗談をよく右井に言う。
だけど、冗談というのは、本当じゃないという意味ではない。
家に帰り着くと、部屋のコルクボードに画鋲で留められた紙を確認する。僕の「今週の予定」がそこには書かれている。家に帰ってからは、夕食まで三時間英語の勉強をする事になっていた。今年度中に英検一級を取るのが目標だった。
僕は右井のことを考えながらリビングに降りて、コーヒーを入れた。
おそらく彼も今頃家に帰り着いているだろう。普段の話を聞いている限りで、彼の様子を想像する。帰ってすぐ、ソファにでも転がってソーシャルネットワークゲームに二時間くらい使い、ゆっくり夕食を食べてSNSを覗いて、プレステをして、またSNSを見ながら寝る。
うらやましいな。
馬鹿だな。
ヒトの努力も知らないでのんきなものだ。
そんなことは、全く思わない。
楽しみも、遊びも、余裕も、ゆとりも、否定しようとは思わない。むしろ、そういうものは生きていく上で絶対に必要だ。だから右井が自分の時間をどう使っていても、特に何も思わない。
マグカップに入れたコーヒーの湯気を瞼に当てる。少し目の疲れがほぐされるようで気持ちが良い。そうしながら「ハウエバー」と小さく口にする。ちょっと間抜けな独り言に自分で苦笑する。
しかし。
右井の言葉を思い出す。「いいよな、園田は頭良くて」と彼は言っていた。
彼は、僕が何をしなくても自然と数学の問題を解けたり、いつの間にか歴史の知識を身につけたりしていると思っているのだろうか。
右井の言った言葉と違って、僕はいつも自分の能力が足りていないと思っている。自分は馬鹿だと、毎日のように痛感する。だからわかる。勉強なんて、馬鹿にでもできるのだと。
高校生一年の時、勉強せずに大学入試の過去問にチャレンジしたら、どの科目も赤点だった。その過去問は「テストの解答用紙に名前を書けば入学できる」と揶揄されるような大学の入試問題だった。
僕は馬鹿で何もできない。
だけど勉強なんて、こんなに馬鹿な僕にでもできる。
「いいないいな」
鼻歌のように口ずさむ。
勝手にそう言っていればいい。
少しだけ藤田と話した時のことを思い出そうとした。だけど、どんなことを話したのかあまり覚えていない。きっと、たいしたことを話してはいなかったのだろう。ただ彼は何をするにも誠意がある。そんな印象を受けたことだけ覚えている。
「”徹夜で勉強したのに”か」
きっと右井みたいなヒトは自分の努力を簡単に認めてしまうのだろう。努力なんてできている実感をした試しがない。いつかどこかで結果が出たとき、「へえ、自分がんばってたんだなあ」と、他人のように思うだけ。いつだって、今の自分は足りていない。
やりたいことに、足りていない。
コーヒーカップを持って自分の部屋へ。机にカップを置き、ミニコンポの電源を入れる。最近のお気に入りはカントリーミュージックだ。英語のテキストを開く。
中学の時の英語教員、所沢先生とはずっと仲が良い。彼女はとても素敵な「先生」だ。僕の尊敬する所沢先生は、大学四年生で英検一級を取ったと言っていた。すごいことだと思う。
僕は、三年生のうちに一級を取って「どうですか所沢先生、すごいでしょ」って自慢する。きっと彼女は「園田君すごいじゃない」って喜んでくれる。
たったそれだけのことが、僕の今やりたいことだ。