如氣狂猿猴
降主殿、ミオがいる部屋。
「んっ……!?」
近付いてくる足音に焦り、ミオは慌てて口に茹で卵をねじ込んだ。
「んんっ……!」
しかし、ミオの狭い口腔はLサイズの茹で卵に占領されてしまった。しかも不運は重なり、明が与えた茹で卵は固茹でだった。半分くらいをかじれば卵の黄身を味わえるが、ミオにそんな余裕はなかった。割れた卵のパサパサと乾燥した黄身が口の中の唾液、水分を容赦なく奪っていく。
「んっ…… んんっ!」
噛み砕くという手段もあるが、それは未成熟な体のミオには酷だ。その上、白身の大きな欠片は最奥の臼歯より更に奥、軟口蓋付近にまで滑り込んでしまっていた。
「んっ……」
やがて卵は軟口蓋を通り越し鼻腔と口腔を繋ぐ部分、食道と気道とを塞いだ。
「んん…… んっ」
呼吸困難になり、顔から血の気が引いて顔色が紫がかる。チアノーゼだ。
「ん…………」
細い手足をばたつかせ、悶絶するミオ。爪が畳の目に食い込む。鼻の奥が呼吸困難でツンと痛む。目の奥、脳が潰れそうな感覚。段々とミオの意識も遠くなっていき、全身から力が抜け始める。
「……ミオッ!」
足音が扉の前で止まり、勢いよく開かれた。
「………………ん」
ミオに振り向く余力はなかった。暗い天井へ向けられた、彼女の瞼は今まさに閉じられようとしている。
「何してんの……!?」
次なる訪問者は扉を開け放ち、土足のまま畳に上がる。そして、異状を示すミオを見て側に屈み込んだ。
「これは……?」
訪問者はミオの近くに何かを発見する。白く菱形の、とても小さな欠片だ。
「卵……!」
明は完全に剥いた卵の殻を回収したはずだが、なにぶん、薄暗い中だったので拾い損ねたものだろう。
「…………ミオッ!」
殻の欠片だと判るや否や、訪問者は顔色を変えて立ち上がる。
「この…… 馬鹿ッ!」
すると、ミオの命が消えかけているにも関わらず、訪問者はミオの頭部を思いっ切り蹴り上げた。固そうな革靴の爪先で、サッカーのトゥーキックのように。
「がっ……はっ…………!」
後頭部への蹴りが功を奏したのか、ミオの命を奪おうとしていた卵が吐き出される。畳の上に薄い黄色と白、少々の赤色の混合物が現れた。
「臭っ!」
途端、部屋中に鼻を突く臭いが立ち込める。ミオの胃液だ。
「がっ……はあ、はあ…………」
解放された気道で黴臭い酸素を肺に、貪るように取り入れるミオ。
「はあ、はあ…………」
数十秒の無酸素状態だったが、ミオにとっては長い時間に感じられたであろう。小さな胸が激しく上下する。
「ミオ?」
「………………」
ミオからすれば廊下の逆光で見えないが多分、訪問者は恐ろしい目で睨んでいることが判ったようだ。人間の不思議な感覚だ。そして、再生したばかりの声帯を震わせてミオは声を紡いだ。
「……きょ、うしゅ、さま…………?」
「そうよ」
訪問者は教主だった。
「アンタ、何やってんの?」
まるで、生ゴミを見るような目でミオを見る教主。
「……え」
「え、じゃねーよ。何やってんのって訊いてんだろ?」
爪先でミオの横腹を蹴る教主。
「うっ…………」
蹴られたことで生じた後頭部及び脳内の熱い痛み、そして腹部に刺すような痛みを新たに感じるミオ。苦悶に顔を歪める。
「な……なな…………」
「はぁ? 何言ってっか分かんねーよ」
「んっ…………!」
痛みの所為で言葉が上手く出てこないミオに苛立ち、更に蹴りを加える教主。
「お前、卵食ったべ?」
「な……な」
コロコロと小さく、怯えながらミオは首を横に振って否定する。
「ああ? 嘘吐いてんじゃねーし! コレ、何なんだよ!?」
ミオの髪の毛を鷲掴みにし、ミオが吐き出した茹で卵の残骸にミオの顔を押し付けた。ミオの頬が唾液と胃液との混合物に塗れる。
「つーか、卵は誰から貰った?」
「………………」
「応えろよ!」
教主はミオの髪の毛を引っ張り上げ、頬に手加減なく平手を打つ。ミオの頬は瞬間的に赤く腫れ上がり、唇の端から一筋の血が流れた。
「ミオッ! てめえは一応、アタシの法器(ほっき、後継者)なんだよ! 修行中の身なんだよ!」
ミオの虚ろな双眸を覗き込み、唾を飛ばしながら怒鳴りつける教主。
「眞理教の教主になるために、修行しなきゃなんねーんだよ!」
「う……ん…………」
「法器は女しかなれねーし、しかも女は汚いんだよ! 分かってんのか!?」
眞理教の教義には、教主になる法器は女児でなければならないとされている。そして、女児は生まれながらに穢れた存在であり、修行によって穢れを祓う。ミオが置かれている状況がそのようだ。
「きた……な…………」
「そう! アンタは汚いの!」
「きた……ない…………」
「だからアンタは水と、白い物しか食べちゃダメなの! 分かる!?」
怒鳴りながら教主はミオを説き伏せる。眞理教の教義で「白浄色穢」というものがあり、法器から教主になるための修行期間では身に着けるものから口にするものまで全て、白い物で統一しなくてはならないのだ。
「は……い…………」
「分かってんだな? じゃあ、何で卵なんか食ったんだよ!?」
再び、教主の怒りが高騰する。
「あっ……! う…………」
もう一発、教主の張り手がミオの頬に飛んだ。
「痛っ! ミオ、てめえ……!」
教主の人差し指にやや大きな傷ができる。張り手の際に、ミオの前歯に引っ掛かってできたのだ。教主の血液がミオの頬にも付着していた。
「アタシの血が流れたじゃねーか! てめえッ!」
自らの血を見て、教主は更に激昂した。創傷は自らの過失であり、ミオの責に帰さない。
「ミオッ! 卵の他にも何か食ったべ!」
「な……い………」
「嘘を吐くなあッ!」
教主はミオの髪の毛を鷲掴みにしたまま吊り上げ、まるでゴミ袋を集積所に放り込むが如く、ミオの体を畳の上へ投げ遣った。身長120cm弱で体重が30kgにも満たないミオの体は女性の教主でも簡単に持ち上げられ、風に吹かれて飛ぶ紙切れのように部屋を舞った。
「ぅあッ…………」
頭部が壁に当たり、肩甲骨を中心に背中が畳に強打された。
「吐け!」
「あ……え…………」
落下したミオに駆け寄り、教主はミオの腹部を踏みつけた。
「があっ…………!」
腹への衝撃に目を見開くミオ。
「吐けよ!」
続けて、第二撃を加える教主。
「う…………」
ミオは供される食事以外は何も胃に入れていない。入れたとしても明から貰った卵の白身、その一欠片だけだ。昨日の食事もとっくに消化されて、吐き出せるものなどない。
「吐けよ、オラァ!」
続けざまにミオの腹部へ攻撃を加える教主。その中で、ミオは自らの体内で何かが砕ける音が聞こえた。
「んッ…………!」
今まで以上に、苦痛に顔を歪めるミオ。脆い肋骨の一番下、それが折れたのだ。しかし、ミオに苦痛を叫びに変える力は残っていなかった。
「吐け! 吐け! 吐け! 吐け! 吐けぇええええええ!!! オラッ! オラッ! オラァアアアアアア!!!!!」
頭に血が昇り、気も狂れてしまったのだろう。教主はミオの顔に目も呉れず、プロレスラーのストンピングのようにミオの腹を踏みつけ続けた。




