四十にもなって喘息を知った。
四十にもなって喘息を知った。
不惑。孔子によると惑わなくなる歳だというのに。咳が咳を呼び、喉が腫れあがり、気道が圧迫され、徐々に呼吸がしづらくなり……大いに戸惑っている。
咳き込む姿を見かねた母が、実家から四角い小箱を持ってきた。どうやら薬のようだ。母というのは、いつまでも母なのである。いつの日か、齢八十の祖母が耳順を超えた母に「帰り道に気いつけるんやで。車が飛び出してくるさかいに」と優しく、それでいて諭すように何度も念押ししていた情景がふとよみがえった。三児の父となった今、その想いが身に沁みる。
ウチは効いたから取りあえず飲んでみ、といって手渡されたのは龍角散。「ゴホンといえば」のあれである。薄青色の小箱の中には、円筒形をした銀色の缶が収まっていた。取り出すと、缶の表面に「登録商標 龍角散」の漢字七文字。浮き彫りされた文字の一つ一つが、台所の蛍光灯の光を反射し鈍く輝いている。この古めかしさが、なぜだか効きそうな安心感を運んでくれた。理由など一切ないのだが。
さて、この薬。飲み方を見て驚いた。説明文書を引用すると、
①中ブタを開けて。
②サジに山盛りに取って。
③舌の上に薬をおき、ゆっくり溶かすようにしながらノドの方に運んで下さい。
無理かもしれぬ。
特に③が。とはいえ、水で飲んではいけない旨が執拗なまでに強調されている。薬の飲み方で戸惑ったといえば、一昔前、葛根湯でも似た経験をした。葛根湯はそのまま水で飲んでもよいのだが、粉をお湯に溶かしてゆっくりと飲むのが最適な方法だという。湯飲みに葛根湯を入れ熱湯を注ぐと、雨上がりの運動場に残された水溜りのような浅い茶色に混濁した液体から湯気が立った。刺激的な香りに腰が引けそうになったが、風邪で重くなった心と身体を奮い立たせ、湯飲みに口をつけた。
良薬は、口に苦し。
飲めないほどではないが、飲みたいほどではない。ずずず、と啜るようにして飲み進めてゆくと、額に汗が浮き出た。薬の効能を最大限にするためにお湯に溶かして飲むのは理解できるが、少し苦痛を伴うような儀式めいた飲み方が「薬の効いている感」を増幅しているようにも感じた。
さて、龍角散に戻る。実際やってみるとわかるのだが、山盛りのサジを舌の上でひっくり返すのが案外難しい。山盛り龍角散は超微細なパウダー状で、移動途中にさらさら、さらさらと零れ落ちる。さらに、元々咳き込んでいる状態なので口内に刺激物が侵入した瞬間にゴホン! こうなると、まるで三文芝居のように口から白い粉が噴き出してしまう。勢い鼻の息も荒くなってしまい、舌の上の龍角散が口蓋の奥の鼻との接続部分に殺到して……最初は、少々パニックとなった。しかし、落ち着いて考えると一時的に呼吸が苦しくなるだけで、薬の成分が鼻系統にも効いていいのではないか、などとも思ってもいる。積極的にはしたくないが。
甘いやうまいわけではないが、それほど苦いわけでもない。母の想いを感じながら--断じてそれは苦々しいものではないのだが--ゆっくりと喉を癒やす。飲んでしばらくは痰の切れがよくなり、咳は出るものの、咳が咳を呼ぶような状態は抑えられているようだった。
たまには母の言う通り、今冬は龍角散にお世話になろうと思う。
効いたと判断して、堰を切ったようにビールを飲んでしまうのを、まず改善しなければならないのだろうけれど。