ハリ・ボ・テと患者の意思
村に危機を知らせる警鐘が高らかに鳴り響く。
「奴だ……奴が出たぞ!」
高台の上で見張りの男が叫ぶ。人々は顔色を変え、ある者は自分の家の中に逃げ込み、ある者は行くあてもなく逃げ回る。いくら隠れようと逃げようと、奴の力と速さの前には大した役には立たないということを知りながら。
やがて『奴』が現れる。それは巨大な狼だった。体躯は二メートル以上もあるだろうか。抑えきれない興奮の感情に身を任せるように、狂っているようにさえ見える無差別な動きで辺りを駆け回り、行く手を阻むものには家であろうと何であろうとその巨体をぶつけて回る。その巨体が家を襲う度に、家は大きく振動し、中の人間は震え上がった。
数分も動き回った頃、狼の様子が突然変化した。何かに気付いたようにぴくっと身体を震わせ、数瞬の動揺の後一目散にどこかに向かって走り出す。
と、狼の身体から銀色の体毛が剥がれ始めた。まるでタンポポの綿毛のように、銀色の毛が飛び立つように次々と狼の身体から離れ、溶けるように消えていく。
一分足らずの時間の後、人気のないところに辿り着いた狼は、既に狼とは呼べない姿になっていた。まだ銀色の毛は剥がれ続けているが、既に毛の無くなった部分も目立ってきていた。皮膚の露出したその生き物の四肢は、今や完全に人間の手足となっていた。顔も、次第に狼のものから人間のものへと変わっていく。身の丈は既に一メートル半もなかった。
地面に座り込んだその生き物は、最後に狼の声で天に向かって悲しげに吠えた。
*
「化け狼の退治、報酬は百万クッキーC――か。どう思う?」
ろくに整備もされていない野道を、若い三人の人間が歩いていた。二人は男、一人は女で、三人とも動きやすそうな、ただし全体としてやたらと黒い服と、黒い魔法使いっぽい帽子を身につけている。
「え? 何か言った、ハリ」
「いや、だからこの依頼についてだよ」
右手に持った紙をヒラヒラさせながら、少年の一人――ハリが言う。
「そうね……まあいいんじゃない? 百万はちょっと安いけど、面白うそうな依頼だし」
少女が答えると、ハリは少し不満そうに言葉を返す。
「いいよね、ハイニーはそこそこリッチだから。僕、今月ピンチなんだよね」
「別にお金持ちって訳じゃないわ。私はあなた達と違って依頼を選ばないだけ――チラシ配りから転ばし屋まで何でもやってるもの。転ばしたい奴が居たら連絡をちょうだい――三割引で請け負うわ」
何の役に立つのかは分からないが、恨みだけは買いそうな仕事だな――ハリは思った。
「でもさ、僕ら、一応はホダクーシ魔法学校のダリフィンドール生なんだから、やっぱり時給二千五百Cは欲しくない?」
「まあ、それはあるけどね」
北西大陸最大の魔法使いギルド、ホダクーシ魔法学校。魔法使いを志す者たちの学校としての役割を兼ね備えた大規模な組合で、所属する人間は、自らの能力に応じて、中心部に集められる依頼を請け負い、報酬を受け取ることが出来る。
ダリフィンドールというのは、能力に応じて開けられる十余りの階級でも、上から二番目という、周囲からはエリートと呼ばれるような、極めて上位の階級であった。
「百万……か。中央への上納が半分だから、山分けで一人十六万六千六百六十六C。残りの二Cをどうするかが極めて重要だな」
そう言ったのは今まで黙っていた少年だった。目つきの悪い少年で、帽子が他の二人のと異なり、先が鋭く光り、何か鈍い光沢を放っている。
「私はいいわ、ロン。ハリとあなたで一Cずつ分けなさい」
「……いいのか? 一Cを笑う者は一Cに泣くぞ」
「そうだけど、お金のために仲間と争うのは嫌だもの」
「……お前、いい奴だな」
言いながら、ロンは滝のように涙を流す。
正直、ハリにもロンがどんな人間なのかはいまいちよく分からなかった。別に、お金に困っているわけではないはずだが。
「ところで、ハーマ」
ぴたりと涙を流すのを止めて、ロンが尋ねる。
「ハイニーと呼びなさい。かわいくないから」
ハイニーはそう言ってロンを睨んだ。ハイニーというのは実はニックネームで、彼女の本名はハーマ・硫黄・ニーという。ただし、この様に非常に本名を嫌っていて、知り合いの人間は皆ハイニーと呼んでいる。
「ハイニー、依頼の村はまだか? もう大分歩いたぞ」
「んー、そうね。あと……」
呟きながら、ハイニーは地図を眺める。そして言う。
「あと二メートルよ」
道が不自然に極端に左に曲がっていた。曲がった途端に視界が開け、目の前に村が現れた。
「うわ、適当……」
ハリは呟いた。
「ようこそウォルツブルグへ。村長を務めるニーテンド・D・S・ライトと申します」
依頼主である村長の家は村外れにあった。村長は中年の、礼儀正しい印象を持つ男だった。
「ニンテンド……」
「ロン、それ以上言っちゃダメ!」
「あ……ああ、そうだな」
ロンが何かを呟き、ハイニーが制した。
「娘のウィオナ・D・S・ライトです」
村長の隣の、ハリ達よりやや年下らしい少女が頭を下げた。
「ハリ・ボ・テです」
「ハーマ・硫黄・ニーだけどハイニーと呼んで下さい」
「ロン・国士無双だ」
ハリ達もそれぞれ名乗る。
「では、依頼について詳しく教えていただけますか」
「うむ。では」
言うと、ニーテンドは家の奥からホワイトボードを引っぱり出してきた。ボードには何も書かれていない。
「まず、退治を依頼した狼だが、その狼は普通の獣よりも遙かに大きく、かなりの力と速さを持っている」
言いながらホワイトボードに『退治を依頼した』と記す。
「狼の現れる周期は大体二、三日に一回だ。どこからともなく現れ、人を狙って攻撃するわけではないが、村の中で無差別に暴れ回ってどこかに消えていく」
『わけではない』と隣に続ける。
「というわけで、我々は家屋を中心として多くの被害を狼から被っている。我々は貧しく、大した謝礼もできないが、その退治を依頼することにした、というわけだ」
『大した謝礼もできない』と一つ下の行に書く。
「だが、気になる部分があるのだ。その狼だが、ずっと昔から居たというわけではなく、一年ほど前に突然現れたのだ。私には、何か事情があるような気がしてならない。よって極めて勝手で悪いのだが、もし狼を倒したとしても殺さずに、一度生け捕りにして私の元に連れてきて欲しい。以上だ」
『気』『分が』『悪い』と言葉の中から抜き出し、また下の行に書き連ねる。
『退治を依頼したわけではない』『大した謝礼もできない』『気分が悪い』という言葉がホワイトボードに並んだ。
「……本当に依頼する気があるのかしら」
ハイニーがハリに耳打ちする。
「ニーテンドさん、依頼の内容は分かりました。捕獲の方も問題ないでしょう」
ハリは苦笑を浮かべて尋ねる。
「ですが、その文字列には何か意味が?」
「は……?」
思い当たる節がないように声を洩らし、ニーテンドがホワイトボードの方に振り向く。そして、
「ホワット!?」
文字列を視界に入れるなり、驚きの声を上げてばっと飛びすさる。そして着地と同時にハリの左足を踏む。
「すみません、私はただキーワードを書き出したつもりで……」
間違いをごまかそうとするかのように、ニーテンドはその場で地団駄を踏む。ハリの足、何回も踏まれる。
「何と、キーワードだったのか。それならメモしなくては」
ロンがどこからかメモ帳を取り出し、メモをはじめる。
「…………」
ハリは何だか悲しくなった。
「ちょっと待ちなさい」
ニーテンドに紹介された宿でチェックインしようとしていると、突然背後のすぐ近くで声がした。
「うわっ!」
ハリは驚いて飛び退く。少し屈んだ姿勢で背後霊の如くハリに張り付いていたのはハイニーだった。
「いったい何の真似!?」
「背後霊の真似よ。そんなことよりあんた、今一番安い部屋頼もうとしてなかった?」
「いや、まあそうだけど。僕とロンで一部屋。ハイニーが一部屋。学校からはその分しか出てないし」
「甘いわね!」
ずびしいっ、とハイニーが何やらポーズを取りながらハリを指さす。
「こう言うときは、財布の中身と相談してちょっとだけ良い部屋にするのが旅のミソなのよ」
興奮したその表情は自信たっぷりである。
「ま、まあいいけど……ハイニーがお金出すなら」
テンションについていけず、ハリがぼやくように言う。
「何いっ!」
ロンが突然叫んだ。こちらも何やら興奮した様子である。
「なればオレは質より量だ! ハリ、オレは二部屋頼むぞ!」
「……別に、お金出すなら……」
もはや何を指摘すればいいのかも分からず、ハリはただ呟いた。
夜の十時を少し回った頃、村の高台で打ち鳴らされる警鐘に、ハリは目を開け、身を起こした。
狼の襲撃だ。出るのは二、三日に一回と聞いて、長い依頼になるかと思ったが、どうやら今日は当たりの日だったようだ。ハリは帽子を被ると、部屋の外に出た。ほぼ同時に、向かいの部屋からハイニーが出てくる。
「あら、早いわね。爆睡とかしてるかと思ったのに」
「馬鹿にしないでよ。僕だってダリフィンドールの……」
そこまで言って、ハリは言葉を失った。
ハイニーの背後、ドアの隙間からのぞいたハイニーの部屋。その中には巨大なテーブルと、まるで玉座のような豪華な椅子があった。テーブルの上には高価そうな料理や果物の山が所狭しと並べられ、玉座の両脇では、アラビアン・ナイトに出てくるようなシルクの衣装を身に纏い、褐色の肌をした美女が二人、植物の葉のような大きなうちわを玉座に向けて優雅に仰いでいる。
と、扉が閉じられた。ハイニーが閉めたのだ。
「ち……ちょっと、中もう一回見せてくれない?」
ハリは思わず歩み寄るが、ハイニーは嫌そうな顔をした。
「宿とはいえ、女の子の部屋を覗くのはあんまり趣味が良くないわね」
ハリは食い下がろうとしたが、狼が来ている今は話し合う時間はなかった。仕方なく尋ねる。
「ちょっと良い部屋……って、どのくらい良い部屋なの?」
「え? あなた達のより三十C高いのだけど?」
ハリの頭の中で、三十Cと先程の豪華な――テーブルの上の食事だけでも五万Cはしそうな――部屋がぐるぐると回った。
宿とは、きっとハリが思っている以上に奥深いものなのだ。ハリはそう納得するしかなかった。
「あとは、ロンにも知らせないと」
気を取り直し、ハリはそう言った。そしてそこで重要なことに気付いた。
「ロンって、どこの部屋だっけ?」
知らせように部屋が分からなくては呼び出すことが出来ない。聞いておくんだったと後悔しながら辺りを見回す。そして、一枚の紙が廊下に貼られているのが目に止まった。
『どっちでしょう?』
白い紙に、大きな字でそう書かれ、右と左をそれぞれ向いた矢印が描かれていた。矢印は、それぞれ一つの部屋を指している。そう、ロンは部屋を二つ借りたのだ。
(時間無いのに……)
一瞬迷ってから、ハリは左の部屋を開けた。中には誰も居ない。少しむかっとしながら右の部屋を開け、叫ぶ。
「ロン! 時間無いのにこんなややこしい真似……」
言いかけて気付いた。中にいたのはロンではなく、旅行をしているらしい子供連れの家族だった。
ハリの声で眠っていた赤ん坊が目を覚まし、泣き出す。非難の目がハリに集まった。反射的に味方を求めて後ろを向くと、ハイニーはちゃっかりと他人のふりをしていた。
「す……すいません」
頭を下げてハリはおずおずとドアを閉める。その肩を誰かが叩いた。
「ハリ、何をやっている?」
ロンだった。
「ロン、どこから……」
ハリが声を洩らすと、ロンはハリの背後の部屋を示した。矢印とは全く関係のない部屋である。
「ロン、どうしてこんなややこしい真似……」
ハリは食ってかかった。ロンは不思議そうな顔をしてから、ここに書いただろう、と先程の紙を指差す。
「だって、この矢印……」
そこまで言って、ハリはまた言葉を失った。先程までただ紙に書かれただけだった矢印が、半ば紙から飛び出るように紙から剥がれ、ゆらゆら揺れながらロンが示した部屋を指していた。
ハリは硬直して考え込んだ。確か、さっきは普通の矢印だったはず……だが、飛び出ていなかったという確信はなかった。何となく右と左、と思っただけだ。
「……何でも、ない。狼出たみたいだから、行こうか」
何にしろ、反論する時間もなかった。ハリは力無くそう言った。
狼は、ハリが予想していたのよりはやや小さかった。確かに大きいが、この世界にはもっと規格外に大きい生き物がたくさん居る。そんな生き物の退治の依頼も珍しくないダリフィンドール生ともなれば、狼はそれほど恐れるような相手でもなかった。
「ファイアボール!」
ハイニーが叫ぶと、空中に突然直径三十センチほどの火の玉が現れた。火の玉はハイニーの腕の動きに合わせて弾かれたように飛び出し、暴れ回っている狼の額に命中した。
狼は悲鳴のように呻き声を上げ、一瞬地面に倒れかけたが、バランスを取って体勢を保つと、ハイニーの方に向き直った。
(ファイアボールでよろけた……頑丈さも、大したこと無さそうだ)
ハリは冷静に分析し、
「浮け!」
叫んだ。ハイニーに突進しようとした狼が突然空中に浮き上がる。狼は慌てたように空中でもがくが、足が地面に着いていなくては動くことが出来ない。
ちなみに余談だが、魔法使いは大別すれば誰でも大体同じような効果の魔法を使うが、その掛け声は人によって様々である。ハリは学校では、この掛け声――呪文とも言う――は、使う魔法の効果を象徴するものだと習った。要するに、それで魔法がイメージできれば何でもいいのだそうだ。
「ロン、頼んだ」
ハリが言うと、ロンは面倒臭そうに頷いた。帽子を頭から外して右手に持つと、尖っていない面を狼に向ける。
「ダ○スレーザー!」
声を発すると同時、ロンの帽子が激しい光を放った。そして、まるで柱のような太い光線がすごいスピードで帽子から打ち出され、狼に命中する。ちなみに技名に関しては、ロン曰く分かる奴だけ分かればいい、とのことである。
狼は抵抗もできないまま光線にはじき飛ばされ、地面にぶつかってさらに転がり、倒れた。立ち上がる力もないのか、倒れたまま苦しそうに呼吸をし、身体を震わせている。
「やったか?」
ハリは小さく呟いた。しかし、その声とほぼ同時に狼は素早く飛び起きた。一瞬ハリ達を見やった後、背を向け、一目散に駆け出す。勝てる相手ではないと悟ったのだろう、とハリは思った。
「手加減しすぎたか」
帽子を頭の上に戻したロンが呟いた。
「追おう」
ハリは言い、狼に向かって走り出した。手負いとは言え、それでも狼はハリ達より大分速い。ここで逃げられては厄介だ。
「ファイアボール!」
足止めのため、ハイニーが再び火の玉を放った。だが、今回は火の玉は狼に命中することはなかった。狼が後ろを見て火の玉を確認し、一歩横にずれることによって避けたのだ。
「避けた?」
ハイニーが、外したことを悔やんで、というよりも疑問に思ったように呟いた。
「ハリ、何かあの狼さっきと違くない?」
「え? 何が?」
「さっきは、興奮で全然周りが見えてない感じだったのに。今は何かちゃんとした意識があるみたい」
「攻撃されて目が覚めたんじゃないの?」
「そう……かしら」
疑問は晴れていないようだったが、ハイニーはそう呟いて黙った。
それとほとんど同時だった。突然、狼に変化が訪れた。突然、狼がぼやけはじめたのだ。いや、見方を変えれば膨らんでいるようにも見えた。
「あの狼、ぼやけて……?」
「違うわ。足元をよく見なさい」
疑問を口に出したハリに、ハイニーが指摘した。ハリが足元を見ると、地面に何か銀色のものが落ちている。しかも、次々と溶けるように消えていっている。
「これは……Oh髪の毛?」
「そう、狼の毛ね。あの狼、何か変化している」
ロンが呟き、ハイニーが肯定した。何かロンのイントネーションにハリは違和感を感じたが。
「そう言えば、あの狼……何だか、速度が落ちてきてるような」
「そう言えばそうね」
狼とハリ達はもう村外れまでやってきていた。周囲にもう人はいない。
「それに、何だか小さくなってないか?」
ロンが言った。もう狼の毛はかなり抜け落ちてしまっている。剥がれ落ちる毛が邪魔でよく見えないが、狼は何か別の物に変化しているようだった。
「そうね。あの狼、何かに変わろうとしている」
「じゃあ、ニーテンドさんの言ってたことは……」
「当たっていたのかもね。とにかく、」
「変化されない内に片付けなければ」
ハイニーの言葉を継いでロンが言った。ただし、ハイニーは、様子を見ましょう、と言うつもりだったのだが。
「ジ○ノブラスト!」
「ええーー!?」
ハリとハイニーが同時に叫んだ。だがもう遅い。狼の周囲に天からの光線が雨のように降り注ぐ。そのうちの何本かは狼に命中した。
狼はつぶれたような悲鳴を上げ、地面に倒れた。今度こそ起きあがる様子はない。同時に、狼――いや、狼だった生き物の身体から銀色の毛が抜けきる。
あっ、とハリは声を上げた。もはや完全に狼ではなくなったその生き物は、紛れもなく人間、それも少女だった。今は気を失い、ぐったりと草むらの中に倒れている。そしてハリはこの姿に見覚えがあった。今はパジャマを着ているが、間違いない。
今日の昼会ったニーテンドの娘。ウィオナ・D・S・ライトだ。
「ニーテンドさん、いらっしゃいますか」
ハイニーが戸をノックする。しばらくの間をおいて扉が開き、ニーテンドが姿を現した。
「おお、ハリさん……」
そこまで言ってから、ハリの両腕に抱きかかえられた、気を失っているウィオナの姿に気付き、困惑したように呟く。
「これは、一体……」
「とぼけないで下さい、ニーテンドさん」
ハイニーが言い、やや冷たい目つきをニーテンドに向けた。
「これが村を襲っていた狼の正体――あなたの娘さんです。知らないとは言わせませんよ。狼が出るときに限って娘さんがいつも居なかったりしたら、気付かないはずがないですから」
「……うむ……」
鋭い口調に押され、ニーテンドは呻くような声を発した。しばらく何かを考えるように黙った後、家の扉を大きく開く。
「入って下さい」
ハリから受け取ったウィオナをベッドの上に横たえ、ハリ達をテーブルの席に着かせると自らも席に着き、ニーテンドは重々しい口調で話し始めた。
「……あの子は、人狼なのだ」
「人狼……人間に変身する能力を持つ狼、ですね。存在は聞いたことがありますが、見たのは初めてです」
特に驚きもせずに言うハイニーに、ハリは感心した。こういうとき、ハイニーの博識に驚かされる。人狼など、昔の伝説上の生き物でしかないと思っていた。
「いや違う。人狼はある条件下で狼に変身する特殊な人種だ。元は狼じゃなく人間だ」
「違うのかよ!?」
「何驚いてんの、ハリ? 私はただ適当に言ってみただけよ」
「適当に言うなよ!」
「母親、つまり私の妻が人狼だった。ウィオナは母の血を引き継いだのだ」
ハリの叫びは無視された。
「妻は――もう十年以上前、この子がまだほんの赤ん坊だった頃から行方不明になっている。恐らく、変身しているときに誰かに討伐されたのだろう」
「……あの子、ウィオナさん自身は、自分が人狼だと知っているんですか?」
「当たり前だ!」
ハリが尋ねると、ニーテンドは突然叫び、拳を悔しそうに握りしめてテーブルに突っ伏した。
「自分が突然化け物になって、自覚もないままに自分の好きな村の人達を傷つける。何と……恐ろしいことか。本当は、狼の被害に一番苦しんでいるのは、あの子自身なのだ」
「……そんなこと、ありません。私が悪いんです」
そう言ったのはウィオナだった。いつから目を覚ましていたのか、身体を起こしてどこか悲しそうな目をハリ達に向けている。
「意識のない状態とは言え、村に被害を出しているのは私なんですから」
「ウィオナ、起きてたのか……無事で良かった!」
ニーテンドが立ち上がり、何となく元気のない娘に駆け寄ると、その腕に娘をしっかりと抱きしめる。その瞬間。
「痛たたたたたた痛痛痛痛痛痛痛痛痛ちょっとお父さ痛だだだだだだ痛い痛い痛い!」
ウィオナが突然死にそうな声で叫んだ。ニーテンドが慌てて、回した腕をウィオナから離す。ウィオナは起きあがった姿勢のままぐったりとなる。
「どうした、大丈夫か!」
ニーテンドが大慌てで言った。ウィオナはぐったりとしたまま、絞り出すような声を洩らす。
「さっき……変身が解ける直前に不必要に激しく魔法で攻撃されて……身体がばらばらになりそうに痛い……」
ゴゴゴゴゴゴ……。そんな効果音を出しながら、ニーテンドが鬼のような形相で振り返る。ハリとハイニーはニーテンドから目を逸らしつつ、ロンに非難の目を向ける。
「なるほど、このあたりの住宅は主としてヒノキを使った木造なのか」
ロンは何やら一人で家の壁を感慨深そうに触っている。
「それはさておき」
このままでは話が進まないと判断したのか、ニーテンドはそう言って表情を元に戻した。そして、突然テーブルに手をつき、頭を下げる。
「頼む! ウィオナを殺さないでくれ! 退治は出来なかったと言ってこのままここから去ってくれ!」
「……それは、あなたが言う言葉ではないでしょう? この依頼の依頼人はあなたなんですよ、ニーテンドさん」
突然頭を下げられて戸惑ったものの、ハリは落ち着いた口調で言った。
言葉を聞いて、ニーテンドは泣くような怒るような、微妙な表情を作った。
「そりゃあ、私はウィオナとここで暮らしていたい。私一人ならば、どんなに迷惑を掛けられようとも娘を退治してくれなどと言うはずがない。だが……」
「村の人達はそうじゃなかった、っていう訳ね」
「そうだ。村の連中は皆、村を襲う狼が消えてくれることを望んでいる――私は村の代表者だ。建前だけだとしても、退治を依頼するしかなかった」
「村の人は、ウィオナさんのことを?」
「誰一人として知る者は居ない。知られたら――ウィオナは、少なくともここには居られないだろう。話の通じない相手では説得もできないが、話の出来る人間ならば、半ば強制的にだとしても説得して追い出すのは簡単だ」
(村のみんなの幸せのためには、自分が文字通り犠牲にならなければならないということか)
ハリが思うとほぼ同時、ロンが呟くように言った。
「村のためには犠牲の文字がみんな自分通りなら幸せなければためにはならないということか」
「そういうことなのだ」
いや何か違くないか。ハリは思ったが、みんな納得しているようなので何も言わなかった。
「私たちが受けた依頼は狼の退治です。たとえその正体が何だとしても」
ハイニーが静かに、しかし冷たく言った。場の空気が張りつめるのが分かった。
ハイニーが右手をゆっくりと上げ、ベッドの中のウィオナに向ける。
ウィオナが一瞬びくっと身体を硬直させたが、ハイニーを見つめ返し、ぎこちなく微笑むと観念したように目を閉じた。
「ち……ちょっと待ってくれ!」
ニーテンドがハイニーとウィオナの間に割って入った。
「どきなさい」
ハイニーは鋭く言った。戦いに精通した者のみが持つ、独特の、迫力のある声。
「断る!」
ニーテンドはきっぱりと言った。
「お父さん、私は、もういいから」
ニーテンドの背後から声が掛けられた。
「私は良くない! ウィオナを殺すなら、私を先に殺せ!」
ニーテンドは全く動かずに叫んだ。そのままハイニーとニーテンドはしばらく睨み合う。そして、
「わかりました」
不意に、ハイニーが微笑んだ。右手をゆっくりと下ろす。
「あなた方は……本当の親子です。実に羨ましい」
ニーテンドに背を向けたハイニーは、嬉しそうな、しかし同時にどこか寂しそうな表情を浮かべていた。
「依頼の内容とは少し食い違いが生じますが、狼が出なくなれば退治したことと大して変わりはしないでしょう」
「……ハイニーさん、それは……」
「先程、狼に変身する条件があるといいましたね。それを満たさないように何とか工夫が出来ないか考えてみましょう。何か問題がありますか?」
その言葉を聞いて、ニーテンドはぱっと顔を明るくした。
「お願いします!」
「私も、依頼とはいえ人を傷つけて何とも思わないわけではありません。この方法で解決が図れるなら、そっちの方がずっといい」
「そうだよ。そうこなくちゃ」
ハリも賛成の意思を示す。
「なるほど、この当たりの住宅の床板は主にヒノキを使用した木造なのか」
ロンは一人で何かを呟いていた。
「それで、その狼になる条件というのは、何だか分かっているんですか?」
ハリは改めて席に着き、ニーテンドに尋ねた。
「うむ……、分かっていることは分かっているのだが」
「対策が難しい条件でも構いません。とにかく、言ってみて下さい」
ハイニーが言うと、ニーテンドはさらに少しためらった後に言った。
「月を見ることです」
月……。ハリは呟いた。これは簡単そうに見えて、なかなか対策が難しい条件だ。なにぶん、注意してもふとした間違いで月を見てしまったりということは充分に考えられる。
条件を知っていてさえこれまで二、三日に一回というけして少なくない頻度で変身してしまっているというのが、その難しさを示している。
「それなら、とにかく」
しかし、引き受けた以上、何もしないわけにはいかないだろう。
「月の出ている間に家から出ないようにするしかありませんね。人間の注意力なんて限界がありますから、それよりは対象から少しでも離れた方がいい」
誰でも思いつくことだとは分かっていながら、ハリは言った。
「幼稚園児でも思いつきそうなアドバイスだな」
「爬虫類でも口に出せそうなアドバイスね」
途端にロンとハイニーが非難の言葉を浴びせる。ハリはかなり悲しくなったが、気にしてもしょうがないので無視することにした。
「外に出ない、ですか?」
ニーテンドが不思議そうに言い、何かを考え込むような素振りを見せる。
「なにか気に掛かる点でも?」
「ハリのアドバイスがしょぼい点」
「お前のアドバイスがみみっちい点」
無視、無視……ハリは心の中で繰り返した。
「いえ、ハリさんがそう言うのなら、ともかくやってみましょう。ただ……」
「ただ?」
「娘の身体に影響が出ないかが心配で……日光に当たる時間が減ってビタミンDが不足しないかとか、夜に遊べないと付き合いが悪いとかいって友達から非難されないかとか、しつこい家庭教師が追ってきて屋根の上しか逃げ場がなかったりしないかとか」
「いや……別に、大丈夫じゃないですかそれは?」
ハリが言うが、ニーテンドはさらに続ける。
「もしこの子が親の目を盗んで夜中に秘密のボーイフレンドに会いに行きたくなったら、私はどうすれば……」
「それはむしろ家の中に入れといた方が安心なのでは……?」
ハリは半ば呆れて呟いた。まだまだ続きそうな勢いだったので、テーブルをばんと叩き、きっぱりという。
「もしウィオナさんの変身がこれからも続くようなら、僕たちはウィオナさんを退治しなければならないんですよ? 娘さんが大切なら、このくらいは我慢して下さい!」
「む……」
ハリの言葉にニーテンドは呻くような声を洩らした。
「分かりました。ハリさんの言葉に従います」
「そうして下さい」
ハリはふう、と息をつき、ウィオナに笑いかけた。
「良かったですね。どうやらあなたを退治せずにすみそうです」
途端にニーテンドに突き飛ばされた。
「な……何すんですか?」
ハリが目を白黒させながら言うと、ニーテンドは焦ったような声で言った。
「いや……娘に変な虫が付いたらいけないと思って」
「いや僕別に手出したりしてませんし。しかも僕変な虫ですか?」
親バカもここまで来ると敬服ものだな、などと考えつつ、ハリは心の中で息をついた。これで、とりあえずは何とかなるだろうか。
「じゃあ、僕たちはしばらくここにとどまって、うまくいくかどうか様子を見ます」
こうなると多少長い依頼になってしまうが、仕方ないだろう。
「じゃあ、今日は宿に……」
ハリが言いかけたときだった。突然、頭上で変な声がした。
「は……は……は……」
(は?)
ハリは疑問に思って天井を見上げた。途端、さらに大きい声が聞こえた。
「ハーーックショーーン!」
くしゃみだった。
瞬間、ハリは直感的に身の危険を感じた。
「守れ!」
「バリアー!」
ハリと、同じく身の危険を感じたらしいハイニーが叫ぶと、ハリ達の頭上に二つの光の壁が出現する。同時に家の天井が吹き飛んだ。
(あのくしゃみは……呪文?)
ばらばらになった天井の破片が光の壁にぶつかる。反射的に防げたから良かったものの、少し遅かったら危なかった。
「ん? そこにいるのは……ハリ・ボ・テではないか?」
頭上から声が聞こえてくる。役目を終えた光の壁が消え、ハリは頭上に人の影を捉えた。
声の主は屋根の上の、天井が崩れたためにハリからも見える位置に立っていた。
その姿を認めた瞬間、ハリは胸の中から激しい感情が沸き上がるのを感じた。
縦三十センチ、横四十センチほどの、ベニヤ板のような長方形の顔。そこから生えた、棒人間が少し進化したような微妙に小さい幅を持った胴体。胴体の下の方から生えた棒人間のものにそっくりなヒモのような足。そして何故か顔の長方形の底辺当たりから生えている、触覚のような手。その手には何だかよく分からないが刃物のようなものが握られている。身体は全体として奥行きが非常に薄い。そして黒い。まん丸な目と小さい口が白く塗られている他は真っ黒である。まるでシルエットのようだ。
その姿は夜の闇が保護色になって非常に見にくかったが、見間違いなどするはずもない。
あいつだ。
ハリは両親の敵の名を叫んだ。全身の怒りと憎しみを込めて。
「ワルデモート!」
これまでのあらすじ
ハリ、ロン、ハイニーは、ホダクーシ魔法学校という大規模な魔法使いギルドのエリート魔法使い。あるとき化け狼の退治の依頼を受け、村に現れた狼を倒すが、それはその村の村長ニーテンドの娘ウィオナだった。その娘が人狼という種族だと知ったハリ達は、返信の条件であるつきを見ないように説得する。説得に成功したかと思われた時、突然謎の人物が家の天井を破って入ってくる。ぼう人形みたいな姿のその人物の名はワルデモート、ハリの両親の敵だった。
「ワルデモート!」
ハリが名を呼ぶと、屋根の上の変な形の影は、ふっ、と笑うような声を洩らした。
「久しぶりだな、ハリ」
「砕け!」
言葉を遮り、ハリは叫んだ。掲げた右手から、見えない巨大なエネルギーのようなものが放たれる。
「ふぁっくしょ――ぃや!」
ワルデモートは唐突に再びくしゃみをした。それが呪文だったのか、そのくしゃみに、ハリの放ったエネルギーは吹き飛ばされ、消滅する。
「久しぶりに会ったというのに、ずいぶん気が短いじゃないか」
「お前と話すことなど何もない!」
ハリは鋭い目をワルデモートに向けた。
「僕が生まれて間もなく、お前が強力な魔法使いだった僕の両親を殺し、そのために僕は両親を失って仕方なくおじの家に預けられたが魔法使いを嫌うおじの家ではひどい扱いを受けて育ってきた。両親の敵をとるためにお前を倒そうと僕が強い魔法使いになろうとしているのを知っているか!」
「すさまじい説明口調ね、ハリ」
言いながら、ハイニーがハリの前に出る。
「ここへ何をしに来たの? 私たちに何か用?」
「ふっ……よくぞ聞いてくれた」
ハイニーの言葉に、ワルデモートは、くっくっくっ……ふはははははフワーッファッフアッわひゃっひゃっふゃっふゃっと気持ち悪く笑った。
黒い長方形のベニヤ板にしろペンキで書かれたような小さい口のようなものの形は変わらないが、夜の空に大きな高笑いが響き渡る。
「この辺りに肩こりに効く秘湯があると聞いてな。えっちらおっちら歩いて入りに来たのだ!」
場が硬直する。ワルデモートが得意そうに話し続ける。
「おかげで足はもう筋肉痛だが、やっと秘湯を見つけて入ったときは心が洗われるような気分だったぞ! しかし、タオルを忘れてきたせいで身体をちゃんと拭けず、湯冷めして風邪を引いてしまった」
「……秘湯って、エリマエル温泉のこと? それなら、乗合馬車で行けるんじゃ」
「そんな金はない!」
ワルデモートは断言した。場を冷たい風が吹き抜ける。ワルデモートが三度目のくしゃみをした。
「貧乏の自慢は見苦しいな」
ロンがぼそっとつぶやく。途端にワルデモートは目を見開いた。と言っても、目にあたる白い丸の直径が少し大きくなっただけだが。
「なにぃっ! 清貧はこの世界でもっとも美しい生き方だ!」
ワルデモートは突然にジャンプした。
「来るぞ!」
ロンが鋭く声を洩らす。
「かみなりアターック!」
「レイ○レーザー!」
ワルデモートの糸のような手から放たれた電撃とロンの帽子から発射された光線が空中で激突し、爆発を起こす。ワルデモートの姿が爆発の中に消える。
「どこに行ったの?」
ハイニーが辺りを見回す。その背後に、突然黒いものが現れる。
「後ろだ!」
ハリが叫ぶ。ハイニーがばっと振り返り、同時に杖をその影に向かって降り、影に叩きつける。だが、同時に黒い影は消え、杖は空を切る。
「残念だったな」
ワルデモートはいつの間にか三人の中央に立っていた。
「まさか……確かに魔力も感じたのに!」
「最強の分身術……『ち○ちゃんの○げおくり』だ」
ワルデモートが、ハイニーの驚いた声に得意そうに答える。
「貫け!」
ハリの突き出した右手の人差し指から細い光線が放たれ、ワルデモートを貫く。しかし、貫いたかと思った瞬間、その姿も溶けるように消える。
「これも偽者!?」
「無駄だと言っているだろう」
声の主は、再び屋根の上に現れていた。と、
「ああ――!」
家の隅に避難していたニーテンドが声を上げた。
「ウィオナが十歳のときに描いたナスのレバニラ炒め添えチャーハンの絵が!」
見ると、壁に貼られた何やらよく分からないものの絵の中央に小さな穴が空き、煙が出ている。どうやらハリの魔法が命中したらしい。
「だから……それはお父さんの顔の絵だって……」
ベッドの中でウィオナが呻くように言う。
ハリたちとワルデモートはその絵をしばし凝視し、絵が、二人の言ったどちらにも見えない――どちらかというと後者に近い――ことを確認してから、再び無言で互いに向き合った。
「で、結局私たちに何の用なの?」
ハイニーが再び尋ねる。
「だから先刻言っただろう。秘湯に入りに来たのだと」
「それは分かったけど。それだけなら、私たちを襲う理由はないはずでしょ?」
ハイニーの言葉に、ワルデモートは怪訝そうな顔をし、あれ? などと言いながら考え込んだ。
(今だ!)
「やめろ、ハリ」
隙を突いて魔法を使おうとしたハリを、ロンが制した。
「早々、くしゃみが出そうだから何となくくしゃみを呪文に魔法を使ってみて見ず知らずの民家の屋根を吹っ飛ばしたら、なぜかお前等が居たんだった」
ツッコミどころ満載のせりふをはき、ワルデモートは、となれば、と続けた。
「別にお前らの相手をしてやる理由はないな。こんな所で無駄に戦って風邪が悪化したら大変だ」
「待て、ワルデモート!」
ハリが叫ぶが、ワルデモートはそれを無視し、両手を上に上げて鋭く叫んだ。
「シーユーネクストバイバーイ!」
ぼんっ、という音と共にワルデモートは煙に包まれた。そして煙が晴れたとき、既にワルデモートの姿はなかった。
「……ふう」
ハイニーが安堵したように息をつく。
「ロン、何で止めたんだ!」
「馬鹿な事を言うな、ハリ」
つかみ掛かるような勢いで叫ぶハリに、ロンは冷静に返した。
「お前もダリフィンドール生なら、相手がどれほどの使い手か位分かるだろう。相手はお前の魔法をくしゃみで吹き飛ばす化け物だ――お前に勝ち目はない」
「…………」
針は言葉を返すことが出来なかった。ロンの言うことは正しかった。だが認めたくはなかった。自分に敵を討つ強さが無いことを。
「……それを、言うなよ」
それを聞くなり、ロンはどこからか画用紙を取り出し、同じくどこからか取り出したフェルトペンで『お前に勝ち目はない』と書くと、ハリの目の前に突き出した。
「……それを、書くなよ」
すると、ロンは人差し指を立てた。ロンの指から白っぽい煙のようなものが出てきて、空中に何かを描いていく。体内の魔力の一部を体外に放出、それを操作し、濃度の大きい魔力が可視になることを利用して空中に文字を描く、音を立てずに言葉を伝えたいときなどに使う技術だった。
ロンの作った魔力の文字は、『お前に勝ち目はない』と読めた。
「……ええと」
ハリは何と表現したらいいのか分からず、しばし考え込んだ。そして、
「……それを、体内から放出した魔力を操作して空中に文字を描」
「大変よ!」
ハリの言葉を遮り、ハイニーが叫んだ。
「どうした!」
「どうしたもこうしたも無いわよ! 天井が……」
ハイニーの言葉にハリははっと気付き、ハイニーの言葉を引き継ぐ。
「そうか、天井が壊れたら、月が……!」
ハリの言葉にロンははっと気付き、ハリの言葉を引き継ぐ。
「月が見えてセンチメンタルになってしまう!」
「ウィオナちゃん、月を見ちゃだめ!」
激しく無視し、ハイニーが叫ぶ。
「え?」
ウィオナは、その声に間の抜けた声を返した。そして――穴の開いた天井から夜空を見上げる。
一瞬、場が凍りついた。そして、
「あ、今日は満月ですよ。綺麗ですね」
「へ?」
ウィオナの声と、ハリの間の抜けた声で解凍された。
ウィオナは何事もないように月を見上げている。狼に変化する様子は全く無い。
「えっ……と? どういうこと?」
状況を飲み込めないらしいハイニーが助けを求めるようにハリを見る。
「え――……と、ニーテンドさん、これは一体?」
ハリもわけが分からず、ニーテンドを見る。
「これは一体……とは?」
「いや、だって、月を見たら変身するんじゃなかったんですか? 今、月見てますけど……」
そこまで言って、ウィオナのほうを見る。やはり変化する様子は無い。
全員の視線が集まる中、特に意味は無いのだろうが、ウィオナが照れ笑いを浮かべてピースサインを作った。
「何も起きてないみたいですけど」
急激にテンションが下がるのを感じながら、ハリは続けた。
「え? 一体何の話……」
当惑したようにそこまで呟いてから、ニーテンドは、あっ、と声を上げた。あ、そうか、とか、なるほど、とか呟きながら、一人でしきりに納得している。
「何を納得している。分かるように説明しろ」
話が読めないことに憤ったらしいロンが、武器の帽子をニーテンドに向け、ニーテンドを睨み付けて言う。
「いやつまり、その……」
言い出しにくそうに口ごもってから、ニーテンドはゆっくりと続けた。
「ウィオナが変身する条件は、月を見ることなんです。賭け事で」
「は?」
ハリは思わず尋ね返した。言葉の意味は理解できたが、全体として何を言っているのかよく分からなかった。
「なるほど、そういうことだったのか。確かにどちらも見るものだな」
「そうね。月とツキだと発音が同じだもの。私たちが取り違えたのね。これなら全て合点がいくわ」
ロンとハイニーはしきりに納得している。
「合点がいかないよ!」
「何で?」
叫ぶハリに、全員の注目が集まる。全員の視線を痛いほど浴びながら、ハリはもごもごと続けた。
「だって……普通、二、三日に一回なんてペースで賭け事しないでしょ? っていうかそもそもそれなら賭け事しなきゃ良いだけで……」
「オレは、そのくらいのペースで賭けマージャンをやるが」
「甘いわね、ハリ。人生とはつまり終わらない賭け事の連続。誰一人、その壮大な賭け事に参加せずに居られないのよ」
即座に二人の反論が浴びせられる。
「いや、ハイニーの言うことも分かるけど、普通賭け事っていったらマージャンとかそういうゲームでしょ? そうですよね、ニーテンドさん?」
「あ……はい、そうですね。うちの場合は、このスロットマシンです」
そう言って、ニーテンドは部屋の入り口の横に置かれている何やら布の掛かった物から布を外した。布の下に巨大なスロットマシンが現れる。
「何でスロットマシンなんてあるんだー!」
ハリは即座にツッコんだ。と言うか、考えるよりも口の方が先に動いていた。口の方が先に動く事があるなんてハリは考えたことも無かった。
「何? ここにスロットマシンが存在することに対して、私は何の物理的矛盾も感じないけど」
「ふん、魔法使いと言う職業は常に予想しない事態の中で活路を切り開かねばならない職業だ。予想外の出来事にいちいち驚いていてどうする?」
容赦の無い非難が浴びせられる。ハリは一生懸命聞こえないふりをした。
「どうしてこんなもの持ってるんですか!」
「どうしてって……この前ラスペガサスに旅行したときに、ウィオナが欲しがったから十万Cで買ったからだが」
「もしかして、狼が一年前から出るようになったのって……」
「うむ。その時からだ」
ハリはうめきながら頭を抱えたくなったが、多分この人たちはちゃんと説得しないと分かってくれないであろうことは予想がついたので、一生懸命に論理的な言葉を考えた。
「スロットマシンを所有すべきでないことを背理法で示す。
仮にスロットマシンを所有するとすると、スロットマシンを使用することによりツキを見て狼に変身する危険性がある
←使用しないように努めても使用したくなる
→狼に変身すると村人に迷惑がかかる
→村人は狼を退治しようとする
←狼の正体はウィオナ氏
→村人はウィオナ氏を追い出そうとする
→村を出て行きたくない に矛盾
よってスロットマシンを所有すべきではない
(証明完了)」
「何言ってんの、ハリ?」
「もとからかなり正常さを欠いていると思っていたが、ついに壊れたか」
「何語ですか? 頭の悪い私に対する新手の嫌がらせですか?」
「エリートというものはこれだからいかんな。何事も論理で相手を圧倒しようとして、人間性を欠いている」
なんとなく反論されそうだなあ、とは思っていたが、予想以上の攻撃を受けて、ハリは何か青い澄んだ空のようなものを見たくなった。
思わず空を仰ぐが、見えたのは真っ暗な空と見事な満月だけだった。
はあ、とハリは深くため息をつき、
「……もう、難しいことは言いませんから、スロットマシンを手放してくれませんか?」
途端にウィオナとニーテンドが顔色を変える。
「ええっ!?」
「なぜそんなことを急に言い出すんですか? このスロットマシンはウィオナがとても気に入っているのに!」
多分、悪気とかは無いんだろうな……ハリは冷めた目で二人を見ながら思った。こんな難しい依頼は初めてだった。
「だって、スロットマシンがあったら、ツキを見てしまうじゃないですか」
ハリの言葉に、ニーテンドは訳が分からないように、は? と声を上げる。
「確かにスロットマシンもツキを見る原因の一つにはなるでしょうが、他にもトランプやくじなど、ツキを見る原因はいくつもあります。スロットマシンだけをその原因と決め付けて取り除き、それを持って解決とするのは、あまりに不十分な解決なのではないでしょうか?」
「お父さんの話、すごく分かりやすい!」
ウィオナが歓声を上げた。ハリは、こいつら初めから自分の話なんて聞いてないんじゃないかと思った。
「これについてはどう思いますか、ハリさん?」
「どう……と言われても」
ハリはどこから指摘すればいいのか分からず、あいまいに答えた。途端に、ニーテンドが勝ち誇るように強い口調で言う。
「ハリさん、あなたは自分の論理力に自信があるようですが、もしかしたら自分の論理を一方的に押し付けてそれで満足していただけなのではないですか? 相手の論理をきちんと聞き、それに対して適切な対応が出来ないようでは、真に論理に長ける人間とは言えませんよ」
その言葉に、ハリは自分の中の何かが弾けるのを感じた。
「……なら、まず僕の論理を聞けよ」
誰にも聞こえない小さな声でぼそっと言う。
急速に何もかもがどうでも良くなっていく。依頼も、報酬も、何もかもが。
「潰れろ!」
ハリはスロットマシンに向かって右手を掲げ、叫んだ。スロットマシンが見えない力に押しつぶされ、ひしゃげた金属の塊となる。気分は最高だった。
途端に、ウィオナが死体でも見たかのような悲鳴を上げる。目の前の事実を拒絶するように目を逸らし、身を硬直させるウィオナを腕の中に抱きいれ、ニーテンドがハリを罵倒する。もはや何を言っているのかも分からなかったが、ハリは気にも留めず、大声で叫んだ。
「何でこんなことも分からないんですか! 今まで狼が出なかったのにスロットマシンを買ってから出るようになったなら原因はスロットマシンのほかに考えられないでしょう! それなのにスロットマシンを所有し続けようとするなんて、信じられません!」
言いながら、張りはどうせこの言葉も彼らには聴いてもらえないだろうと思っていた。
いざとなったらもう全部無視して帰ろうかと思っていた。だが、彼らの反応は、ハリの予想とは大きく異なっていた。
ウィオナが、ニーテンドが、ハイニーとロンまでもが、目が覚めたような顔つきでハリを見つめていた。
「ハリさんは、ずっとそれを言おうとしてたんですね」
「え?」
「ハリさんが私にスロットマシンを捨てるように言ったのは、私を狼に変身させないためだったんですね。私、やっと理解できました」
「そう……ハリ、あなたの言いたいことはそれだったのね」
何かが、先ほどまでとはまるで違う。ロンなんかは感極まったのか涙すら流している。
「すいません、ハリさん……私の理解力が乏しいせいで、ハリさんを苛立たせてしまって……本当にすいません」
「私も……ハリさんの言いたいことに気付けずにハリさんの論理力を疑うような言葉を口にしてしまって……本当にすいません」
「そうね……ハリ、あなたがスロットマシンを破壊するという強硬手段に出るまであなたの意図を気付けなかったのには、私にも責任があるわ」
みんなが口々に謝ってくる。ハリは何が起こっているのか分からず、いや、いいよ、などと自分でも良く分からずに言った。
「でも」
ウィオナが言った。突然家の中は静まり返った。
「ハリさんがスロットマシンを壊す前にさっきの言葉を言ってくださったら……スロットマシンを壊さなくても、売ってしまったり返却したり出来たのに」
言ってから、はっとして口をつぐむ。
「いえ……ハリさんを責めたりする気は全くないんです。全ては私が理解力がないのが悪いんですから。すいません、気になさらないでください」
ウィオナの言葉に、三人の顔が暗くなる。
「そうね……確かに、タイミングが悪かったわね。あの言葉が先に出ていれば……いえ、ハリ、あなたを責めるわけではもちろんないけれど」
「そうだな……ハリを責めることは誰にも出来ないが、あまりに残酷な結末だな」
「スロットマシン、十五万Cもしたんですよね。いえ、ハリさんを責めるわけではないですが」
「何、この行き着くべき結末はいくつもあったのによりによって最悪の結末に行き着いちゃったみたいな感じの雰囲気!?」
ハリは叫んだ。誰も答えなかった。
「依頼完了を報告いたします」
三日後、ハリたちはホダクーシ魔法学校に帰還し、依頼の完了を報告した。
「ご苦労様でした。依頼主からの報告もすでに手紙で届いております。ダンブル・回転扉校長からお言葉と報酬の受け渡しがあるので、校長室に行くように」
「はい、先生」
ウォルツブルグを出てからもしばらくの間、ハイニーはハリになぜか気を使うし、ロンはやたらと落ち込んで何も話さないしで気まずい空気が続いたが、今はもう二人とも最悪の結末に到ってしまったことのショックから立ち直ったらしく、いつもの二人に戻っていた。
「化け狼の退治、ご苦労であった。して、どうであった、首尾は?」
校長室は校長の私室とはいえ、このように報酬の受け渡しなどのイベントの舞台となることもあるとあって、それなりの広さを持っていた。
今、ハリたちの前の机には御年八十二歳という高齢の魔法使い兼ホダクーシ魔法学校の校長たるダンブル・回転扉が腰掛けており、その隣には教頭のマギガガガグ・ギゴガガが立っていた。
「依頼自体は、問題ありませんでした。狼が出ることも、恐らくもうないでしょう」
ハイニーはそれだけ言い、それ以上の事は最悪の結末を思い出してしまうから言いたくない、と言うように顔を伏せた。
「そうか、ご苦労であった。では、報酬を受け渡すとしよう。マギガガガグ君」
ハイニーの落ち込みには気付かなかったらしく、ダンブルは、厳格さの中にどこか愛嬌のある、明るい声で言った。
「はい」
言葉を受けて、マギガガガグが前に出る。
「今回の依頼の報酬は百万C。学校への上納が半分になりますから、二人が十六万六千六百六十七C、一人が中略六十六Cになりますね」
「では、多い方をハリとロンに」
ハイニーの言葉に、マギガガガグは、分かりました、と言い、しかし、と続けた。
「依頼先から、器物損壊の報告を受けています。この分はあなた方の報酬から引かなければなりません――D・S・ライト家の家の天井、五万C、それと、スロットマシン十五万C」
「え、弁償するの!?」
ハリは叫んだ。確か、悪いのは自分だとか言ってなかったか。
「物を壊したら弁償するのは当たり前でしょう、ハリ?」
「い……いえ、こっちの話です」
マギガガガグの冷たい声に、ハリはもごもごと答える。
「そうですか。では、三人の報酬から、弁償額を三で割ってそれぞれ六万六千六百六十六C引いた額を、今から手渡します。よろしいですね?」
その言葉に、ハイニーとロンが意を決したように立ち上がった。口を揃えて、それはもう見事に口を揃えて言う。
『スロットマシンを壊したのはハリです』
「やっぱりかあっ!」
ハリは叫んだが、その声は校長室にむなしく響いただけだった。
かくして五分後、ハリは一Cの入った封筒を手に校長室を出た。
何だかもう寮に戻る気力すら気力すら湧いて来ず、ハリはふらふらと廊下に倒れこんだ。
「何かおかしいだろこれはぁっ!!」
最後の力を振り絞るようにハリは叫んだ。廊下にいた何人かがハリに奇抜な物を見るような目を向けたが、ハリに手を差し伸べる者は誰もいなかった。
(完)