第七十七話 声が聞こえる
視力を不慮の事故で失った田井中は、スーパーの買物へ行くため、その日も盲導犬のぺスを連れて歩道を歩いていた。ぺスは生後4才になるラブラドール・レトリーバーの温厚なメスである。田井中が住む街は障害者対策に熱心で、都市整備がされていた。至る所がバリアフリー化され、田井中も大層、助かっていた。
田井中が歩道を歩いていると、ぺスが突然、止まった。当然、連れている田井中も止まったが、いつも通る一本道のはずだから障害物はないはずだった。田井中は、おやっ? と思った。
「どうした、ぺス?」
ぺスに語りかけたが、いっこうに動こうとしない。田井中は少しリールを引っぱった。だが、ぺスはやはりビクとも動かない。そして、低い唸り声を小さく出している。田井中には、その声が聞こえた。そのときである。
『あのう、もし…。田井中さんでいらっしゃいますか?』
急に田井中へ語りかける女の声がした。妙だ…人の気配はなかったはずだが…と田井中はビクッ! と思った。いつもなら、後ろ、対向、左右の横から・・と、人が近づいたとき、田井中は馴れでその気配を感じられるようになっていたからだ。事故後、20年の歳月が流れていた。それが、今日はまったく感じなかったのである。
「あの…、どちらさまで?」
田井中は、声がした方向を向くと、静かに訊ねた。
『私です。お忘れになりました? いつやら同じクラスになった石橋です』
石橋? ああ! ブリジストンか…と田井中は思った。あの頃、クラスでは美人でマドンナ的な存在だった石橋についた渾名だった。その彼女の声が聞こえるのだ。だが、彼女は病死したはずだ…と、田井中は少し怖くなった。
「はあ、石橋さんは知っております。でも、あの方はご病気で…」
田井中は口 籠った。
『ええ、確かに死にました。でも、病気じゃないんです…』
しくしく…と寂しげになくその女の声が田井中の耳に聞こえた。田井中はゾクッ! とした。いつの間にか、ぺスは唸るのをやめていた。
『私、ここで轢かれて死んだんです…』
そういや、石橋と名乗る女の声は若い声だった。田井中と同い年なら、初老のはずだからである。
「あ、あの私、道を急いでますので…」
少し震える声で田井中は、そう言った。
『ごめんなさい。お止めするつもりじゃなかったんです。ただ、あなたに死の影が見えたもので…。この先の信号、注意して下さいね』
そう呟くように告げると、女は押し黙った。そして、冷んやりとした風が田井中の頬を掠めて流れ去った。次の瞬間、ぺスがワン! と大きくひと声、(ほ)吠えて動き始めた。田井中はふたたび、引っぱり動かされるように歩いていた。なんなんだ、いったい…田井中の頭は錯綜していた。恐怖心は幸い、目が見えないことで小さかったが、声が聞こえた薄気味悪さに変わりはなかった。
しばらくすると、横断歩道があった。信号は田井中には見えなかったが、ぺスの利口さで停止し、また動き始めた。信号が変わった…と田井中は感じた。そのとき、信号無視した車が一台、田井中の後方を掠めて走り去った。もう少し田井中が遅れて渡っていれば、激突死するところだった。間一発で助かったのである。石橋と名乗った同級生の女の忠告は嘘じゃなかった…。そう思うと、田井中は信号で両脚が凍りつき立ち止っていた。ぺスがリールを引っぱって田井中を催促した。
『よかった…』
どこからともなく、女の小さな声が聞こえた。田井中はゾクッ! と身震いし、先を急いだ。
完




