第七十六話 手順前後
優先順位を間違うと手順前後となり酷いことになる。
「パパ! 早くしてよ!」
トイレの前で地団駄を踏んでいるのは今年、小学校三年になった悠基だ。
『ああ、もう出る。あと五分! 頼む!』
パパの等がトイレ内から小声で言った。そこへ、美希が廊下を通りかかった。キッチンへの通路だから仕方がない。
「あなた達は、いつもそうなんだから…。二人ともいい加減にしなさいよね」
「ママは、そう言うけどさ~。パパ、長すぎるよぉ~」
悠基は通り過ぎた美希の後ろ姿に言葉を投げた。美希は無視してキッチンへ消えた。
『いやぁ~、すまん、すまん…』
等が呟くように謝り、その日の朝は無事、終息した。
小学校である。チャイムが鳴り、放課後になった。悠基はランドセルを背負うと退校した。今日は入っている将棋部の部活がない日なのだ。
「ははは…、そりゃお前さ、手順前後だよ。この前、それで僕、負けたんだ」
同じクラブの彰則と連れだって、悠基は通学路を歩いていた。
「どういうこと?」
「お前が先に入れるよう動けばいいだけのことだよ。トイレで待つ前、お前、なにしてた?」
「トイレで待つ前ね…。トイレで待つ前は確か、洗面所で歯を磨いてた」
「じゃあ、トイレに行ってから歯を磨きゃいいじゃないか。手順前後、手順前後!」
彰則は笑いながら朗らかに言った。
「ああ、そうか…」
次の日の朝、さっそく悠基は手順前後で実行した。よく考えれば、汚い話ながら健康的には出すモノは早く出さないといけないのだ。保健で習った快眠、快食、快便は健康の三種の神器? いや、そこまではいかないか…と、悠基は虚ろに巡った。
功を奏して、トイレは悠基が等を制した。
「ヨッシャ!」
悠基はガッツポーズをして中へ躍り込んだ。やれやれと思ったのも束の間、トイレット・ぺーパーが切れていた。慌てて出て悠基はトイレット・ぺーパーの収納場所へ向かった。そのとき、逆方向へ向かうひとつの影があった。対向しない通路を等はトイレット・ぺーパーを手に進んでいたのである。結局、悠基は等に先を越された。
「そりゃお前、準備不足だよ。棒銀もいいけどさぁ~。矢倉、美濃、袈裟囲いとかの形を作らないと…。森田さんに訊いてみな」
森田さん? 冗談だろ、あんな超有名なプロ棋士に訊ける訳ないだろ! と彰則に小馬鹿にされたようで、悠基は少し怒れた。将棋部長の彰則はプロ棋士を目指していたから、よく考えればそれも理に叶っていた。彰則は悠基より格段、棋力が優れ、言い返せなかった。
「準備不足か…」
「ああ。準備も、する、しないでは手順前後に影響するんだよ」
「なるほど…」
その夜、悠基は手順前後の夢を見た。トイレの前で等と対峙して正座し、将棋盤をお互い睨みあっている夢である。
『ありません…』
悠基が投了を小さく告げた。
『では、お先に…』
等は静かにそう告げると、徐に立ち上がってトイレの中へと消えた。悠基は急に便意に襲われ立ち上がって地団駄を踏んだ。そのとき、悠基は、ハッ! と、目覚めた。現実でも便意が襲っていた。辺りはまだ早朝の気配で薄暗い。悠基はトイレへ急ぎ、駆け込んだ。どういう訳か薄暗いトイレの隅に、ないはずの将棋盤が置かれていた。
完




