第七十五話 涙舟
その日も渡し舟は向こうの河岸へと通行人を運んでいた。舟は船頭以外に五人乗れる程度の小舟だ。向こう岸が見える所に設けられたこの渡し場は、地元では遠い昔から涙の渡し・・と呼ばれていた。片道10分もかからない川巾なのだが、どういう訳かこの川には橋がなかった。なんでも、悲しい言い伝えがあるとかで、橋を架ける話は幾度もあったようだが、地先の賛同が得られず、結局、架けられないまま、今の時代に至ったそうである。
「おぅ~~い! そこの人! 乗って下さいよ。もう出ますから~」
年老いた船頭は、待合所から出ない若い女の乗客に声をかけた。二人乗ったのだが、もう一人が乗らないのである。いつも見ない妙な客だ? と首を傾げながら、年老いた船頭は百円を二人からそれぞれ受け取った。
「あんたら、あの人、知ってなさるか?」
船頭は二人に訊ねたが、「さぁ~?」と首を傾げるばかりだった。声は聞こえる距離なのだから、女には聞こえているはずなのである。その女はやはり待合所から出ようとはせず、泣きながら無言で船頭に頭を下げるばかりだった。陽はすでに山向こうに沈んでいた。夏場の生暖かい風も吹き、船頭はその若い女にどこか薄気味悪さを感じた。これで今日は終わろう…と船頭が思った矢先のことだった。煮え切らない女に、船頭は待っていても埒が明かないから、もうひと声かけて出そう…と決意した。
「もう、出しますぞぉ~! この舟が最後ですぞぉ~!!」
大声で呼んだが、やはり女は涙顔でお辞儀するばかりだ。そうか…客とは限らんか…と、船頭はふと気づいて、舟を出し、櫂を漕ぎ始めた。川半ばまで来たとき、中年の乗客の一人が、ポツリと口を開いた。
「そういや、亡くなったばあちゃんが、いつやら言ってたなぁ~」
「えっ? 何をです?」
船頭はギィ~ギィ~と漕ぎながら、その中年男に訊いた。
「いやぁ~、怖い話なんで、よしますよ」
「そう言わず、聞かせて下さい」
船頭は、せがんだ。
「ああ、俺も聞きたいな」
もう一人の乗客の青年も、せがんた。辺りには夕闇が迫っていた。
「そうですか、それじゃ…。なんでも、この舟は涙舟と呼ぶんだそうです。それに、涙の渡しと名づけられたのには、いわれがあるようなんです。遠い昔、この渡しで帰らない男を待ち続けた女が、とうとうそれを苦に身投げをしたんだそうです」
「ほう! その話は私も初耳ですな」
年老いた船頭も、そんな逸話があったとは知らなかった。漕ぐ櫓の軋む音がギィ~ギィ~と妙に気味悪さを高める。
「も、もう、いいです!」
青年が話を止めた。そのとき、薄闇の中をフワァ~と人魂が舟めがけて近づいてきた。
『今、私の話をされてましたぁ~~?』
いつの間にか乗客がひとり増えていた。待合所にいた女が蒼ざめた顔で乗っていた。女は長い髪を掻き上げながら、冷んやりとした声で呟き、三人を見つめた。
「ギャ~~!!」
ハッ! と登は目覚めた。深夜の四時前だった。登は、びっしょりと冷や汗を掻いていた。寝る前に読んだ百物語のせいだ…と思った。起き上がった登は身体を拭こうと部屋を出た。そのとき部屋の中へ登が夢で見た女がスゥ~っと現れ、髪を掻き上げながら薄気味悪くニヤリと笑った。
完




