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第七十三話 教養に生きる

 春の陽気に誘われシトシトと暖かい催花雨さいかうが降っている。定年退職した坂巻謙一は今日も教養に生き、書物しょもつを読みふけっている。無教養だった坂巻が教養に生きるようになったのには訳がある。役所で勤務していた坂巻は、事あるごとに自分の教養のなさを痛感させられたからだった。話は坂巻がもっとも痛感させられたその頃にさかのぼる。


 その日も暖かい催花雨が降っていた。坂巻は上司に怒られ、すっかりテンションを落としていた。

「まあ、気にするな! 俺だって、ちょくちょくあることだ」

 休憩ロビーで窓ガラスに映る催花雨を見ている坂巻の肩をポン! とたたいたのは同期入庁の奥峰平彦だ。手には温かな二本の缶コーヒーを持っている。

「ああ…」

「まあ、飲め!」

 缶コーヒーを手渡しながら横に座る奥峰は笑顔で言った。坂巻はうなずいて、その缶を受け取った。

 坂巻が上司である課長補佐の進藤に怒られたのには訳があった。監査委員選任の人事案件を見落としていたのだ。この春、議会事務局に配属され、まだ不慣れな坂巻だったから、選任時期をうっかり見落とした。議案第3号ではかる案件だったが欠落し、その3号議案に専決処分事項の承認案件を入れてしまったのだった。運が悪いことに共同作業をしていた先輩の山下がインフルエンザで数日休んだ時期と重なった。しかも進藤は、この春の異動で係長から管理職の課長補佐に昇進したものだから、一度怒りたくてウズウズしていた最悪期だった。これも運が悪いといえば運が悪い。周囲の職員達の教養はどういう訳か高く、坂巻はそれに馴染なじめなかった。彼を誰一人、フォローする者はいなかった。その坂巻をつい最近まで仕事仲間だった菅財課の奥峰が慰めたのだ。

「教養は大事だな、奥峰…」

 缶コーヒーをグビグビッと飲み、坂巻は、しみじみとつぶやいた。

「んっ? …どういうことだ?」

 奥峰にはその意味が分からない。

「まあ、いいさ…」

 坂巻は事務局の皆が教養が高く、自分は教養がないから浮き上っている…とは言えず、ぼかして流した。

「そうか! まあ、れんだろうが頑張れ! 今晩、一杯やろうや、付き合えよっ。じゃあな…!」 

「ああ…」

 坂巻はいい親友を持ったな…としみじみ思った。奥峰は飲み干した缶を屑カゴへ捨てると、笑顔で立ち去った。坂巻は自分の教養を高めようと決意した。その日から坂巻の猛特訓が始まった。寝ては起き、起きては見つつ幻の…という坂巻が教養に生きる強烈な日々が続いていったのである。

 一年後、議会事務局の誰もが付いていけない教養の高さを坂巻は持つに至った。くん呼びだった進藤が「坂巻さん、お願いします…」と、さん呼びで尊敬リスペクトして話すようになったのはその頃からだった。事務局の職員達も、坂巻の前では一切、教養を披歴ひれきしなくなった。坂巻は不思議なことに、教養のオーラに包まれ、出世の道をひた走っていった。


 今日も、春の陽気に誘われシトシトと暖かい催花雨さいかうが降っている。退職した坂巻は静かに書物を読み耽っている。


                  完

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