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第七十二話 傾斜[スロープ]した男

 今年で五十半ばになる村川七郎は傾斜スロープした男である。そうなったのには訳があるのだが、結果、村川家は村川の感覚に合わさねばならない破目におちいったのである。これは家族の全員が我慢させられるという生活の日々であり、村川以外の家族にとってはつらい歳月が流れていった。こうした生活は、家族という最小の身近な組織を崩す何ものでもなかった。大きくなった子供達は傾斜した住みにくい家を離れて、それぞれ出ていった。今では、夫婦ということで仕方なく一緒に暮らす妻の沙紀代と核家族にもならない二人暮らしを村川はしているのだった。家は当初から基礎面で約5°の傾斜角を持って建てられた。手抜き工事とかで床に置いた球が転がる・・という性質の話ではない。転がるよう設計され、床が傾斜しているのだ。すべてが村川に合わせた設計なのである。この設計を依頼したのは施主の村川だが、彼が傾斜したのには彼に関わるある出来事があった。話は当時にさかのぼる。

 ある晴れた日、グラウンドの外野席でぼんやりと草野球を観戦していた村川は、打者が打った場外ホームランの球を受け損ね、パウンドした球で頭を打った。幸いにも直撃は避けられたから命に別状はなく、怪我も小さなタンコブ程度で済み、当初の異常は認められなかった。村川も多少の痛みは感じたが、病院へ行くほどでもないな…と判断し、そのまま建て替え前の家へ帰宅した。

 一週間後、村川は妙な感覚を感じた。家を出た途端、歩道がどういう訳か緩慢かんまんな下り坂になっていたのである。村川は瞬間、そんな馬鹿な! と思った。それもそのはずで、昨日きのうまで歩道は平坦へいたんだったからである。俺は疲れてるんだ…と村川は会社へ行くのを断念して体調不良で休むことにした。家へもどった村川は、沙紀代に具合が悪いむねの訳を言って眠ることにした。家の中も傾斜していた。村川は一時的なことなんだ…と自分に言い聞かせた。

「そう…。じゃあ、夕方に起こすわね」

「ああ…」

 沙紀代にそう言われ、村川はペッドへ入ると眠った。夕方になり沙紀代がドアを開け、村川を起こした。村川はベッドを出て両足をゆかへ下ろした。おやっ? と村川は思った。平坦なはずの床は、やはり傾斜していた。まだ疲れているんだ。それに不自由するほどのことでもない…と村川は一時のこととあきらめ、そのまま生活を続けることにした。だが、その症状は一時的なことではなく続いたのである。

 こんな出来事があり、村川は傾斜した男になったのである。それ以降、彼の周りはすべてが傾斜した景色が見えている。靴も前が高く後ろが低い特注品だ。靴に限ったことではなく、村川が生活する個人的なものは、すべてがそうだった。会社の机も違和感があるくらい前上がりになっている。机の前足二本の下にモノをませ、わざと前上がりにしたのだ。書類が落ちないように磁石ストッパーで止め、ファイルとかのぶ厚いものは机の中か足下に置くようにしていた。会社では村川中心の進行は無理だから、まあ仕方がないか…と村川も思うことにした。会社の連中も最初は異端視したが、最近では理解を示してくれるようになっていた。

 会社に異変が起きたのは、世間が不況に陥ったときだった。それは悪い異変ではなかった。あらゆる業種の、それもほぼすべての企業が不況に陥り、業績が右肩下がりになっていく中で、村川の会社だけが益々、右肩上がりの好況を続けたのである。村川自身も信じられない出来事だった。村川は身震みぶるいするような怖さを感じた。


                  完

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