第六十三話 のんびりしたい
山熊は今年で五十九になる定年前の中年男である。彼はすでに生活に疲れていた。生憎、伴侶に恵まれず、この年になった男である。そんな一人身で日々、家のアレコレに縛られれば、まあ誰でもそうなるだろう。山熊の場合も例外ではなかった。そして、彼はいつの間にか還暦を迎えようとしていた。そんな山熊だったが、ようやく明日、定年退職する日が近づいたのである。これでいくらか、のんびりできるだろう…と彼は踏んでいた。だが、その読みは甘かった。
「山熊さん、ご苦労さまでしたぁ~!!」
課長から花束を渡され、山熊はパチパチと課員達から笑顔と労いの声で送られた。そして会社のエントランスを後にし、自社ビルを見上げた。その瞬間、やれやれ…と山熊は深いため息を一つ吐いた。急にネガティブな脱力感に包まれたが、彼はこれで、のんびりしたい夢が叶うな…と、ふたたびポジティブ感を取り戻し、両手を広げた。空には春を告げる小鳥の囀りがあった。ここまでは、よかった。
半年後、山熊は、やはり生活に疲れていた。新道路の着工で山熊が住むマンションが取り壊され、新たに別の場所へ立て直されることになったのは、山熊が退職して僅か半月後だった。山熊には寝耳に水の話で、彼の読みは狂い始めたのである。
「とりあえず、配布いたしました仮マンションで生活していただくということで…」
新マンション建設に伴う住民説明会が行われ、仕方なく住民達は引っ越していった。当然、山熊も引っ越した。人間とは妙なもので、住めば都なのだが、そうなるまでには適応期間が必要なのか、どうも山熊は仮マンションに馴染めず、のんびりできなかった。こうした日々が積み重なれば、やはり疲れるのだ。結果、半年後の山熊は生活に疲れていた。のんびりしたい…という山熊の思いは、彼の希望ではなく、もはや切なる願いになっていた。
一年後、山熊はカプセルホテルで目覚めた。彼にとってカプセルは狭い空間ながらも馴染め、のんびりできた。誰からも束縛されず、のんびりしたい…という彼の夢は、ようやく達成されたのである。彼は大 欠伸をしながら両手を広げ、ホテルを出た。外には高級外車が一台、横付けされていた。その中から一人の老齢な紳士が降り立った。
「お迎えに参りました!」
「あっ! ごくろうさん…」
山熊は、さも当たり前のように薄汚れた背広服で乗り込んだ。彼がこうなったのは、のんびりとできて以降である。のんびりできた途端、急に運が巡り、彼はある人物と遭遇し、見込まれた。結果、山熊はその人物のあとを継ぎ、大金持ちになった。ただ、彼は富を得て以降、またのんびりしたい…と、時折り思うようになっている。幸い、金力により妻子には遅れ馳せながら恵まれた。今度こそ、のんびりできると山熊は思った。だが、彼の読みは、また甘かった。金などいくらあっても死ねば終わりだ…と気づいたのだ。今、山熊には不安が付きまとっている。不安があれば、のんびりとはできない。だから彼は、のんびりしたい…と思うようになった訳だ。この先、山熊がどうなっていくか…は、読者のご想像にお任せしたい。
完




