第五十九話 諦[あきら]める男
餅塚はすぐに諦める男である。ひと月前の大雪の夕方、彼は仕事を終え、会社仲間数人と駅へ出た。雪による交通の乱れは、家を出る前から彼の予想の範疇だった。運休が決まりごとのように、駅員が問い合わせる乗客に説明している。当然、タクシー乗り場は長蛇の列だ。彼はすぐ、諦めた。
「じゃあ、僕は、これで…」
「んっ? ああ、そう…」
会社仲間は当前のように餅塚を見送った。彼は会社で‘諦め餅’と呼ばれ、名を馳せていたからである。契約でも先方の出方で、こりゃ無理だ…と推し量ればすぐ諦め、事前に選んである数社と交渉して成功へ導いた実績があった。
餅塚は会社ビルへとUターンした。彼の頭の中には、すでに分刻みの綿密な図面が広がっていて、会社へのUターンもその一環だった。朝持って出た寝袋は自分の机の下へ置いてあった。あとは夕飯弁当を買い、数本の缶ビールと摘まみで事は足りた。タオルは鞄の中に入れてある。これも、とても明日は帰れまい…と早々と諦めた成果といえた。諦めた途端、餅塚の準備対策が始まるのだ。寝袋を出し、タオルを出し…と整え、床についた。今朝の出がけは大した雪ではなかったから諦める必要はなかった。
まず冷えた身体には、ひとっ風呂だろう…と彼は銭湯へ向かった。この発想もすでに餅塚の脳内に組み込まれていたのだが、ビ-ルを買うのが先か、風呂が先か…で迷っていた。そのとき、会社前にビールの自動販売機があったのを思い出し、風呂が優先されのだった。銭湯は幸い混んでいなかったから、餅塚はゆっくりと湯舟で温まった。風呂上がりのコーヒー牛乳を飲むのも彼のお決まりのパターンになっていた。というのも、今日は疲れたな…と諦めた彼は、必ずこの銭湯へ入ってから帰るのが常だった。顔が火照ると、もう酔ったか…とすぐ諦め気分に駆られたから、酒は出来るだけ家へ帰ってからにした。精力との関連もあり、妻との親睦の夜は特にそうだった。
二時間後、会社のデスクで食べ終え、ビールも適度に回り、彼は寝袋に潜り込もうとした。もちろん暖房を入れ、応接セットの長椅子の上で、である。
「あっ! 餅塚さんでしたか…。この雪ですからねぇ~」
ガチャ! っと、ドアが急に開き、警備員の堀田が入ってきた。餅塚とはもう、20年来の知り合いだった。
「タクシーもホテルも、早々と諦めました。ははは…」
二人は大笑いした。
「それじゃ…」
堀田は軽く敬礼すると出ていった。いつもは妻に起こされる餅塚だったが、まあ、起きられるだろう…と早くも諦め、寝息を掻き始めた。
朝、餅塚は妻に起こされた。そして、ハッ! と目覚めた。自分は会社で眠っていたはずだ。それが今、俺はベッドにいる。そんな馬鹿な! と餅塚は窓ガラスの向こうの庭を見た。庭に雪はなかった。餅塚は妻に確かめようと早足でキッチンへ向かった。
「おい! 雪はどうした!!」
「はあ?! 雪って、今年は降ってないわよ。あなた、どうかした?」
「… いや、なんでもない」
餅塚は、さっぱり訳が分からなくなった。分からないのだから、どうしようもない…と、彼は諦めた。
完




