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第五十二話 軽い人

 矢野は今年で53になった中年男である。職場は、柚子ゆず町役場の町民課だ。町自体は人口が7,300人内外のそう大きくない小ぶりの町で、山間地にあった。だから、どちらかといえば町というより山村さんそんに近い感じがしないでもなかった。そんな柚子町だが、観光地ではないものの、一応、温泉もいており、町民は無賃で入浴することが出来た。そういうことで、矢野はいつもタオルを持参していることをむねとし、持って家を出ないことはまずなかった。

「おい! 矢野さんが歩いてるぜ…」

 いつものように町営の湯にかろうと矢野が歩いていると、それを遠目で見ている二人の町民がいた。町営牧場で働く二人だ。

「ああそうだ…矢野さんだ。ははは…あの人は軽い!」

「そうそう、軽い軽い! 軽過ぎて飛びそうだもんな」

「この前なんか、土産持って来てくれたのはいいけどさ、タオル渡して、そのまま土産を持って帰ろうとしたんだぜ」

「ほお、面白い話だ。もう少し、詳しく聞こうか」

「ああ。俺は止めたさ。あのう、これ…ってさ」

「それで?」

やっこさん、『あっ! どうも』って、ペコリと頭さげてタオル受け取ると、出てった」

「土産は?」

「そのまま持って…」

「矢野さん、何しに来たんだ?」

「軽いだろ?」

 二人は顔を見合わせ、大笑いした。二人から遠ざかっていく矢野は町営浴場へ入っていった。

 町営浴場へは、野良仕事を終えた町民が時折り浸かりに来ていた。なにせ、お金がいらないのだから、便利さはこの上ない。しかも、町営牧場の牛乳が飲み放題とあって、矢野は一日に一回は来ていた。

「ああ、どうも、ご精が出ます…」

 矢野が脱衣して湯に浸かろうと木戸を開けると、町長の堀田が木柄の掃除用自在 ほうきゆかタイルをゴシゴシと磨いていた。この作業は町長自ら買って出た専権事項だった。むろん、疲れると湯に浸かり、また磨くという作業の繰り返しだから、当然、丸裸である。女湯の方は、奥さんがやるのが常だった。矢野は無言で別の箒を手にすると、町長に合わせてゴシゴシとやり始めた。

「矢野さん、いいから浸かって下さい」

「いや、町長こそ…」

「そうですか? それじゃ、お言葉に甘えて…」

 矢野はその後、二時間ばかりゴシゴシと磨き、浴場を出たとき、辺りはすっかり暗くなっていた。何か肌寒いぞ…と矢野が気づいて立ち止ったのは、出てしばらく歩いたときである。とうとう矢野は湯に浸かるのを忘れてしまっていたのだった。そんな軽い自分を、ははは…と笑うと、矢野はまた歩き始めた。矢野の身体は、いつの間にかアドバルーンのようにフワフワ浮き始めた。それでも矢野は空気の中を歩き続け、家に向かっていた。


                  完

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