第四十九話 十一段
プロ棋士二人による囲碁十段戦の対局が繰り広げられている。辺りは静寂のみが支配し、時折り、パタパタと扇子を動かす音や記録係の読み上げる声などが小さく聞こえるだけで、あとは一切の気配がなかった。突然、後手番の平田十段の右手が動き、碁笥の白蛤石がピシッ! と盤上に音高く打たれた。
「白18の4、ツケ」
半分、睡魔に襲われウツラウツラと頭を垂れていた源田九段は、その石音にハッ! と目覚めた。うんっ? と打たれた白石を見つめると、次の瞬間、源田九段は那智黒石をより大きな音でピッシッ!! と盤上に打った。
「黒18の5、ハネ」
すぐに平田十段の手が動いた。
「白18の3、ヒキ」
記録係の声が静かに響く。盤上を見た源田九段が、ウッ! とひと声あげ、顎髭に片手をやりながら揉み始め、考え始めた。そして20分が経過したとき、考え倦ねた末の源田九段は静かに黒石を一目盤上の隅に置き、対峙して座る平田十段に軽く頭を下げた。
「ありません…」
「えっ!?」
平田十段は手の扇子を握りしめ、驚いた。時計係と記録係の二人も同時に「さあ?」と顔を見合わせ、首を傾げた。無言の時が束の間、流れた。歴史的な前代未聞の珍事が棋院で起きた一瞬だった。
「ひ、平田十段の中押し勝ちでございます…」
平田十段はこの一番に勝ち、十段位を防衛したのである。
「いやぁ~参りました。平田十一段」
「はぁ?」
平田は源田の言葉が解せず、顔を窺った。それでなくても、なぜ源田が投了したのかが平田には皆目、分からなかったのだ。かねてより囲碁界では奇才の変人と言われる源田である。
「ははは…ジョーク、ジョークですよ。それじゃ、お先に…」
顎髭ををふたたび撫でつけると、源田は席を立った。実はウツラウツラとしていたとき、源田九段は朧気に夢を見ていたのだった。その夢の中では雲の階段が続いていて、丁度、十段目が、やや広めの踊り場になっていた。そこには平田十段が悠然と笑顔で座っていて、源田九段を手招きしていた。源田九段は九段目の階段を踊り場へ昇ろうとするのだが、どうした訳か足が動かなかった。平田十段は、『それじゃ、お先に…』と言うと、立ち上がって十一段目の階段に昇り、腰をふたたび下ろした。そのとき、ピシッ! と石音がして、源田九段は束の間の夢から現実に戻されたのだった。夢の階段は十一、十二、十三段…と、ずっと続いていた。
完




