第四十八話 腰かけ峠
今から数百年ほど前、とある山村に彦一という百姓が暮らしていた。その男が耕す田畑は、どういう訳か、山一つ越えたところにあった。いわゆる飛び地である。どうしてオラの田畑さ、山向こうにあんだ? と日頃から彦一は不思議でならなかった。彦一以外の村の者達は朝、田畑へ出て耕作し、昼になれば持参の昼飯を食べ、夕方前にまた家に帰れば事足りた。だが彦一の場合、そうはいかない。他の者達と同じ分の耕作をするには早く家を出て山を越えねばならないのだ。そして、山向こうにある田畑へ着いた早朝には、すぐ耕作を始める必要があった。だから、暗いうちから起きて朝飯用の握り飯を作らねばならなかった。朝飯は家を出て歩きながら齧り、竹筒の水を飲んで渇きを癒した。しかも昼に飯を食らうのはいいが、八つ時には耕作をやめ、日暮れまでに家へ戻らねばならなかった。人の倍は働いたことになる。
そんな日々を彦一が続けていたある日のことである。いつものように彦一は家を出て山の峠に差しかかった。あとは下りである。脚が勝手に下りて行くから、ほっとひと息つける気分になれるところだ。この峠は昔から腰かけ峠と呼ばれ、一度、腰を下ろすと天の使いが声をかけるまで立ち上がれない・・という腰かけ石の謂れが伝わっていた。毎朝通る峠だから、彦一は当然、その腰かけ石の前を通った。しかし、村に伝わる謂れも知っていたから、彦一は見て見ぬ振りで通り過ぎるのだった。心では、そったら馬鹿な話だばねだ…と思いながらも、やはり怖さも手伝って通り過ぎていたのである。だが、その日は、少し彦一の気分が昂ぶっていた。同じ村に住む多恵という娘を嫁にする話が纏まったからである。彦一は浮かれていた。少し気分が昂ぶり過ぎ、峠に出た頃には疲れがどっと出た。そんなこともあり、彦一は腰かけ石に座ってしまったのである。すでに辺りは黄昏れが迫っていた。しばらく座っていると、ようやく疲れも取れ、あとは下って村さ戻るだ・・と彦一が腰を上げようとしたときである。どうしたことか、彦一の身体は石に吸い寄せられたようにびくとも動かなかった。立とうとしても立てないのである。彦一の額に冷や汗が流れ始めた。そして、とうとう漆黒の暗闇が辺りを覆った。梟の鳴く声がどこからか聞こえる。山下の村の灯りがチラホラと見えるのが彦一の唯一の救いだった。そのとき、一陣の風が舞った。赤い光が一瞬、輝き、声がした。
『なにをしておる、彦一よ! 浮かれるでない。この石に座ってはならぬ。今度だけは日々の精進に免じて助けて遣わす。以後は、心せよ』
声のあと、ふたたび赤い光が一瞬、輝き、風が舞った。彦一は嘘のように立つことが出来た。その後、彦一はその石には二度と座らず、妻と二人で幸せに暮らしたそうである。
完




