prologue
†
咽頭から溢れだした嘔吐を嚥下して、篳篥 玲は地盤に腕を落して顔を歪めた。
背骨を匍匐する流汗が悪寒を誘引して、刹那に途絶えた。
「…………」
慟哭と哀哭、そして鬼の嘶きが彼女の脚を手繰った。悲鳴を、嘔吐と共にもう一度嚥下する。血管が収斂したような、厭な感覚に苛まれながら篳篥は全速力で修羅を駆け抜けた。そのまま走って、数メートル。
彼女が空洞に滑り込んだ一閃、爆風でコロニーのコンクリ―トが吹き飛んだ。
「…容赦、無いな」立ったまま向うを窺い、洞穴の中で嘆息する。
「玲、大丈夫か」
さして心配そうでもなく事務的に会話を行うように、隣に座り込んでいた男が急に立ち上がって呟いた。
「……別に」
其処で、自身の右腕に裂傷が出来ていることに気が付いた。肘の裏から手の甲まで、斜めに流れる血痕が戦場の凄絶さを物語る。虫唾が走る、と、思った。
その傷口をアイロンが綺麗に効いたハンカチで抑えられ、鈍い痛みに嘔吐が再発する。ハンカチを男から奪い取って、自分で押さえつける。
「何を見た」
「ゲロみたいな死体と、腐臭と、人間の悲鳴」
「鬼の方は?」
「ゲロを喰ってるやつと、腕を捥がれて皮膚一枚で繋がったパーツを燻らせてるやつと、精液をまき散らしてるやつ」其処まで言い切ると、急に疲労感が篳篥を襲った。膝を崩して座り込む。「…吐きそうでしょ」それを上から見下ろして、男は「俺は何も聞いてないぜ」と軽く嘯いた。「お前の精神が心配だよ」
「余計なお世話…そんなに入口の近くにいて察知されないの、ルナ」
ルナと呼ばれた男は顔面に張り付いた薄い唇の角を持ち上げて、嘲笑するように笑んだ。「問題ない」
「Harlemはとうの昔に準備しておりますよ、お嬢様」決してクズに認知されないように、と今度は何故か、諧謔的に語尾を荒げて。この造形のよくできた男の言動は、きっと自身にも把握できていないのだろう。と何となく篳篥が黙考していると、ルナは「な」と囁いた。彼の振り向いたもとには、大仰な機械を抱えた白衣の男が佇んでいる。「ハクイ…」当然渾名である。
「―――Harlemは対零卑唖専用気配周囲霧散装置だ。この主電源部から外部に異物電波を送信し、電子のブレによって敵を目視している奴らの監視下から脱することが可能になる」
「でもそれじゃ異物電波を察されるんじゃないの?」疑問をふ、と口にした篳篥の言葉が呻きに変わる。
須臾|(シュユ。刹那と同義)にあばらに激痛が走る。「それは禁句だ」「それだけなら殴らないで…」
ハクイと篳篥の距離、僅か五メートル。
「その程度なら魔楼で届くんだから」
「そうか」ハクイは呟いた。「新エネルギー現、マロウ」揶揄するような響きに、ルナと篳篥が顔を顰める。「笑い事じゃないでしょう(だろう)」
「それよりも、こんなところにずっといれば当然感づかれるんじゃないか」
「ハクイの言うことも尤もね」「まぁ当然といえば当然だ」
そして、背後でもう一度、コンクリートが割れる音がした。
「行くか」
篳篥は、モデルガン仕様のPA-49を握った腕を震わせた。
【To Be continued...】
≪語句≫
・篳篥 玲/レイ…ヒチリキレイ。女。年齢は18、コロニーKSの若年兵士。主にスナイプ。ダガー、小型電動ガンを使用。
・九条 綺月/ルナ…クジョウキルナ。年齢は19、コロニーKSの若年兵士のリーダー的存在。特殊投擲ナイフの扱いに長ける。
・羽咋 祭/ハクイ…ハクイサイ。年齢は16、コロニーKSの最年少兵士。機械を得手とし、戦場に出ることは稀。
・コロニー…人類植民地。詳細は後。
・Harlem…対零卑唖専用気配周囲霧散装置。本来携帯電話の妨害として用いられていたごく簡易的な装置を戦場用に改造したもの。
・魔楼…マロウ。石油の消滅後、新たなエネルギー源として活用されている。詳細は後。
・PA-29…小型電動銃。サイレンサーがついているが簡易的なもので、戦闘には向かない。本来はモデルガンとして活用されていた。現在受注は殆どなく篳篥の持っている物もオリジナルである。
神崎、年齢は15です。