ストーカー
深く帽子を目深に被り、大きなマスクで顔を覆った男が、
ある一軒家の前に立っていた。
男は周囲を警戒するようにキョロキョロと見回すと、
意を決したように門扉を開け、玄関へと進んだ。
インターホンへと指を伸ばし、慎重にボタンを押す。
だが、家の中からは何の反応もない。
男がドアノブに手をかけると、鍵は掛かっていなかった。
薄暗い玄関には、微かな生活臭が漂っていた。
男は三和土に揃えて脱がれた女性用のパンプスに視線を向ける。
(……いるな)
安堵と緊張が入り混じったような、重い吐息が漏れる。
男は額の汗を拭うと、リビングの方を真っ直ぐに見据えた。
一刻も早く、確認しなければならない。
男は逸る気持ちに突き動かされるように、身を乗り出して一歩を踏み出す、
その瞬間だった。
「うわっ!」
男の足元が突然消えた。
玄関の床板が踏み抜かれ、男の体はそのまま下の闇へと吸い込まれる。
ドサッという鈍い音に続き、グシャリと何かが突き刺さる嫌な音が響いた。
男の絶叫が家の中に木霊する。
「やったか!」
奥のリビングから、興奮した様子の夫が飛び出してきた。
その後ろから妻もおずおずと顔を出す。
落とし穴の底では、男が苦悶の表情を浮かべて血の海に沈んでいた。
床下にはあらかじめ、切っ先を上に向けた包丁が何本も固定されていたのだ。
「くく、ざまあみろ。ストーカーめ」
夫は穴の縁に立ち、苦しむ男を見下ろして歪んだ笑みを浮かべた。
「ほら、トドメだ。正当防衛を成立させるためにな」
夫はさらに手にしたナイフで、動けなくなった男の腹部を容赦なく刺した。
男は一度大きく痙攣し、やがて動かなくなった。
この夫婦には、誰にも言えない秘密があった。
それは「人を殺してみたい」という、異常な欲望だ。
だが、殺人罪で捕まるのは御免だ。そこで二人は一計を案じた。
妻が魅力的な服装で出歩き、ストーカーを誘引する。
そして「ストーカーに悩まされている」と警察に相談実績を作り、
既成事実を積み上げる。
その上で、自宅に侵入してきた暴漢を、パニックになった末に殺害した――
というシナリオを描いたのだ。
この落とし穴も、そのために何日もかけて細工したものだった。
しばらくして、サイレンの音が近づいてきた。夫婦自身が通報したのだ。
駆けつけた制服警官たちが、玄関の惨状を見て息を呑む。
「な、なんてことを……」
一人の警官が呻くように言った。
夫は両手で顔を覆い、演技たっぷりに震えてみせた。
「すみません……怖くて、怖くて……。
もしもの時のために罠を作ってはいたんですが、
あいつが入ってきた瞬間、頭が真っ白になって……気がついたら刺してました」
妻も夫の背中にしがみつき、嘘泣きをしている。
「僕たちは、ただ自分たちの身を守りたかっただけなんです!」
警官は沈痛な面持ちで、穴の底で息絶えている男を見やった。
男の顔からズレたマスクの下には、まだ若い真面目そうな素顔があった。
警官は静かに無線機を取り出すと、本部へと連絡を入れた。
「……こちら現場。至急、応援求む」
警官の声は震えていた。
「見守りの為に巡回に向かった同僚が、殺害されました」
夫の嗚咽が、ピタリと止まった。




