毒の壺
この世にいるのは僕の味方と敵──
つまりはママとそれ以外のひとたちだ。
「おい、マイロくん」
学級委員長のキリアンが後ろから声をかけてきた時、僕は学校の廊下を歩きながら、すべての雑音を耳からシャットアウトしていたので、振り向きもせずに理科室へと向かっていた。
「マイロくん! 聞こえてないのか?」
もちろん耳栓などはしていない。心にバリアを張っているだけだ。
「マイロくん! 僕は学級委員長として君に忠告させてもらう! 君のお母さんは恐ろしい魔女だ、今にとんでもないことになるぞ」
さすがに聞き捨てならなかった僕は、肩に手をかけてきたキリアンへ振り返ると、その顔面にパンチをお見舞いしてやった。この、きのこ野郎め!
職員室に呼び出され、鼻の頭にガーゼをつけたキリアンと並ばされ、先生に困った顔で事情を聞かれた時も、僕は心にバリアを張っていた。
「マイロ……。寮に入りなさい」
命令するようにそう言う先生を、僕は軽蔑した。自信がないのなら命令なんてするべきじゃない。なんだ、その頼りない、威厳のかけらもない目は。それでも教師だというのか。
「ゾーイさんは、そのうち役人に逮捕される。その前に、家を離れておくんだ。……君も巻き添えになるよ」
先生のことも殴ろうかと思った。でも生徒どうしの喧嘩なら一日の停学程度で済むこともあるが、教師に暴力をふるえば退学もありうる。理不尽なことだが──
僕はママのために、握った拳をぐっと抑えたんだ。僕はいい息子でいたい。
手を出したほうが負けるなんてルールを誰が制定したんだ。誹謗中傷を受けても手を出したほうが悪くなるなんて──
「ママ! 世界を滅ぼそう!」
家のドアを開けるなり、僕は大声で提案する。
「あの、くだらないやつらを、皆殺しにしてやるんだ!」
ママの姿は、家のどの部屋にもなかった。
「ママ! ママ!? どこにいるの」
「ここだよ、マイロ」
足の下からママの声がくぐもって聞こえた。
地下室があるなんて、息子の僕でも知らなかった。
僕を迎えるように床が開いた。
その下にある白い石の階段を、僕は信じて降りていった。
暗くて、蒸し暑い地下室があった。
ママが木の椅子と同化していた。
あんなに美しかったママ──
あいつらだ、あいつらが、ママをこんなに膨れ上がったカエルの化け物みたいにしてしまった!
「おいで、マイロ」
溶けた歯を見せて、無表情な笑顔でママが僕を手招きする。
「できたのよ、遂に──」
ママを取り囲んで、陶磁器の壺がいくつも並んでいた。
じっとしているのにその表面を石鹸の泡のような色が蠢く。
固く蓋のされた壺たちを見て、僕がどれだけ歓喜の声をあげたかったか、誰にわかるだろう?
「これは──毒の壺だね、ママ?」
僕は嬉しすぎて、思わずママに抱きついた。
息をしていないママが、椅子から落ちそうになった。少し慌てて抱き上げる。安定したママの、藁と交換した顔に、僕が口づける。
暑い部屋に蒸されてすっかりゼリー状に蕩けてしまったママの手にも口づけた。
幸福な笑顔を浮かべて、僕はママに誓う。
「これを明日、学校にばらまくよ」
僕はその地下室で、たったひとりの正義だった。
「どいつもこいつもを、ママと同じようにしてやる」
かつて異端とされ、弱々しかったママは、もうそこにはいなかった。
世界を憎み返し、自らを毒と化し、僕に力をくれた。
頼もしく、僕の背中を優しく押してくれる、神となったママが、何も言わずに微笑んでいる。
神を乗せて、ロッキングチェアーが、ぎしぎしと揺れた。