1941年7月20日:ドニエプル川の膠着~ヒトラーの激怒~
【1941年7月20日・東プロイセン 総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」】
ヴォルフスシャンツェの地下壕に、ヒトラーの怒鳴り声が響き渡った。作戦室の巨大な地図には、東部戦線の赤い進撃線が、ドニエプル川でまるで巨大な見えない壁にぶつかったかのように、完全に停止していた。バルバロッサ作戦発動から一ヶ月足らずで、進撃は完全に膠着状態に陥っていた。
「どうなっているのだ!? この『赤い鉄壁』とやらは!?」
ヒトラーは、地図を指差し、テーブルを拳で叩いた。その顔は、血管が浮き出るほどに紅潮し、目は血走っていた。開戦当初の自信に満ちた表情は、見る影もなく消え失せていた。
国防軍最高司令部総長カイテル元帥は、額に冷や汗を滲ませながら報告した。
「総統…敵は、ドニエプル川の流路を異常なまでに深く掘り下げ、川幅を広げております。通常の架橋では突破できません。さらに、対岸の『治水施設』や『トラクター工場』と称されていた建造物は、想像を絶する堅牢な要塞と化しており、我が軍の砲撃にもびくともしません…」
「要塞だと!? アプヴェーアは何をしていたのだ!?」
ヒトラーの怒声が、作戦室にいる全ての将校を凍り付かせた。
陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥が、苦渋の表情で言葉を絞り出した。
「補給状況も絶望的であります、総統。敵が徹底的に破壊した鉄道網と道路は、復旧に莫大な時間を要しております。前線には弾薬も燃料も食料も届かず、兵士の士気は…」
「士気だと!? ドイツ兵の士気が低いなどと、口にするな!」
ヒトラーは咆哮した。彼は、フランスをわずか数週間で打ち破った「無敵」のドイツ国防軍が、東欧の「未開の蛮族」の前に立ち往生しているという事実を、到底受け入れることができなかった。
「馬鹿な! あのようなボルシェビキの非効率的な工事が、このような堅固な防御線を築き上げるとでも言うのか!?」
彼は、アプヴェーアの報告書にあったソ連の「非効率性」と「腐敗」を思い出し、それが自分たちを欺くための巧妙な罠であったことに、ようやく薄々気づき始めていた。しかし、その怒りの矛先は、真実を隠していたソ連ではなく、その真実を見抜けなかった自らの情報機関と、無能に見える将軍たちに向けられた。
「すぐに全力を投入せよ! ドニエプルを突破しろ! この進撃の停滞は、我がドイツ国防軍にとって、耐え難い屈辱だ!」
ヒトラーの叫びは、ドニエプル川で苦戦する兵士たちには届かなかった。彼の怒りの咆哮は、東部戦線で深まるドイツ軍の泥沼と、彼らを待ち受ける真の地獄の序章を告げていた。




