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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1941年6月28日:フメリヌィーツィクィイの泥濘~中隊長の絶望~

【1941年6月28日・ウクライナ フメリヌィーツィクィイ近郊】

 灼熱の太陽が照りつけるウクライナの平原。だが、熱気とは裏腹に、ドイツ軍中隊長、ハンス・ミュラーの心は冷え切っていた。フメリヌィーツィクィイの南ブーフ川周辺は、地獄と化していた。数日前までは乾いていたはずの大地が、今や深い泥濘と化し、戦車や装甲車両の履帯は、粘りつく土に足を取られ、文字通り身動きが取れなくなっていた。


「くそっ! またか!」


 ミュラーは、泥に深く沈み込んだIII号戦車の脇で、悪態をついた。兵士たちが必死に丸太や土嚢を敷き詰めるが、重い車両は容赦なく泥に吸い込まれていく。これは自然の泥濘ではない。明らかに人為的なものだ。ソ連軍が、この一帯を掘り起こし、水を流し込んだのだ。地元の住民が、恐ろしい形相で鋤やシャベルを振るっていたという報告はあったが、まさかここまで徹底されているとは。


「司令部、こちらミュラー中隊。南ブーフ川周辺、完全な泥濘地帯と化しています。戦車の進行は極めて困難。装甲車両も半数以上がスタック…」


 無線機から聞こえてくるのは、混じり気の多いノイズと、焦燥に駆られた味方の声ばかりだ。前線への補給も途絶えがちになり、兵士たちの顔には疲労と飢えの色が濃く刻まれている。携帯食料も底を突き、水筒の中はとっくに空になっていた。


 その時、頭上でけたたましいサイレンの音が響き渡った。


 エンジン音が低く響いた。

 兵士たちは一瞬顔を見合わせた。誰かが言った。

「味方のシュトゥーカか?」

 だが、音が違う。より重く、低く、うねるように接近してくる。

 ミュラーが叫んだ。

「まるで我々のシュトゥーカみたいな……いや、あれはIl-2だ! ソ連の襲撃機だ!」


 兵士たちが、慌てて散開し、身を伏せる。ソ連のシュトゥーモヴィーク(Il-2)が、低空で襲いかかってきたのだ。泥に嵌り身動きの取れない戦車は、格好の的となる。機関銃の弾丸が、泥と土埃を巻き上げながら地面を叩き、爆弾が炸裂するたびに、大地が大きく揺れた。


「クソッ、燃料が切れそうだ…このままじゃ、ただの鉄の棺桶だ!」


 ミュラーは、叫んだ。補給は来ない。空からは容赦ない攻撃が降り注ぐ。この泥濘は、我々の進撃を阻むだけでなく、我々を閉じ込める檻と化している。


 ふと、彼は背後にある鉄道の線路に目をやった。数日前、破壊されていたはずの線路の一部が、奇妙なほど迅速に修復されていることに気づいた。ドイツ軍の工兵部隊が夜を徹して作業しているのは知っていたが、あの破壊のされ方からすると、あまりにも早すぎる。まるで、敵が意図的に破壊の度合いを調整していたかのように思えた。そして、その修復された線路の先に、何百台ものT-34を満載した貨物列車が、まるで幽霊のように現れる悪夢を見たような気がした。


「馬鹿な…まさか…」


 ミュラーは首を振った。そんなことはありえない。ソ連は無能だ。アプヴェーアの報告書にもそう書かれていたはずだ。しかし、この数週間の悪夢のような抵抗と、この泥濘、そして奇妙な鉄道の修復…彼の脳裏に、拭いきれない疑念が渦巻いていた。


 それでも、ミュラーには進むしかなかった。総統の命令は絶対だ。この泥濘を突破し、前進する。それだけが、彼に残された道だった。絶望的な状況の中、彼は泥濘の向こうに広がる、さらなる地獄を予感していた。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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