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1937年7月〜8月:極東の火種とクレムリンの綱渡り

【1937年7月上旬・モスクワ クレムリン スターリン執務室】


 真夏のモスクワ、クレムリンのスターリン執務室は、うだるような暑さにもかかわらず、張り詰めた空気に包まれていた。窓の外は、革命広場の喧騒が遠く聞こえるが、室内の重い沈黙はそれを許さない。机の上には、電報が数通、無造作に置かれている。日付は7月7日。内容は、北京郊外で日中両軍が衝突し、全面的な戦争に突入したことを告げるものだった。日本の軍靴が、まさに中国大陸を蹂躙し始めていることを報じていた。


 ヨシフ・スターリンは、その電報を黙読していた。手にはいつものパイプが握られているが、煙は吐き出されていない。彼の目は、壁に掛けられた巨大なソビエト連邦の地図の、極東地域に釘付けになっていた。


「日本は、満州を足がかりに、ついに本格的な侵略を開始したか……。」


 低い声が、執務室に響いた。それは、独り言のようでもあり、目の前の国防人民委員ヴォロシーロフ元帥と、参謀総長シャポシュニコフに語りかけているようでもあった。


 ヴォロシーロフは、不安げな表情で言った。「同志スターリン。これにより、極東における我々の防衛体制の強化が喫緊の課題となります。増援部隊の派遣、そして物資の備蓄を早急に行うべきかと。」


 しかし、スターリンの視線は、極東からゆっくりと西へと移動し、ドイツとの国境付近、そしてドニエプル川へと向けられた。彼の顔には、この二正面作戦の可能性がもたらす、国家戦略上のジレンマが深く刻まれていた。


「極東への資源集中は、西方への備えを遅らせる。そして、西方の『赤い鉄壁』の構築が遅れれば、ドイツは躊躇なく我々に牙を剥くだろう。貴殿らも知っての通り、我々は限りある資源と、限られた時間の中で、この二つの巨大な脅威に対処せねばならんのだ。」


 彼は、手元の地図を指で叩いた。

「天然ゴムの供給は、いまだ不安定だ。英国からは少量を得ているし、国内の合成ゴム生産は加速しているが、まだ満足のいく水準ではない。この状況で、極東に大量の戦車や航空機、そして何よりもゴム製品を回せば、西方の部隊の足元が危うくなる。」


 シャポシュニコフは、その冷徹な現実に、重い口を開いた。

「同志スターリン。極東への戦略物資の供給は必要不可欠ですが、西方への『赤い鉄壁』の構築は、我が国の長期的な存続に関わる問題です。現時点では、極東艦隊の増強を凍結し、陸軍と空軍の戦力を中心に、既存の備蓄を最大限に活用することで凌ぐべきかと。新たな大規模な投資は、西方の計画に支障をきたします。」


【1937年7月中旬・モスクワ クレムリン】


 日中戦争の勃発を受け、スターリンは極東の状況について、ヴォロシーロフとシャポシュニコフに具体的な指示を出した。


「極東の防衛線は、日本に易々と突破させてはならん。だが、主力部隊を恒常的に駐留させるのは得策ではない。モンゴル人民共和国を、日本への牽制として利用するのだ。」


 スターリンは地図上のモンゴル人民共和国を指し、その視線は凍てつくようだった。

「彼らには、我が国の旧式のモシン・ナガン小銃や、余剰となった旧式機関銃、砲弾などを供与せよ。最新鋭の兵器は、西方の『赤い鉄壁』のために温存する。軍事顧問団を派遣し、モンゴル兵の訓練を強化させ、自ら日本との国境を守らせるのだ。これにより、我が赤軍の正規兵を西方に集中させることができる。」


 ヴォロシーロフは、その現実的な策に頷いた。モンゴルはソ連の衛星国であり、その軍事力を利用することは、ソ連の負担を軽減する上で有効な手段だった。


【1937年8月下旬・モスクワ クレムリン 外務人民委員部】


 極東の緊張が最高潮に達する中、スターリンは、外務人民委員リトヴィノフに重要な指示を出した。

「リトヴィノフ同志。中国国民政府と、不可侵条約を締結せよ。これにより、日本が我々に矛先を向けることを躊躇させ、中国大陸に深く釘付けにさせるのだ。」


 リトヴィノフは、スターリンの冷徹な戦略に感服した。日本と中国が泥沼の戦いに陥れば、ソ連は極東での直接的な軍事衝突を避けつつ、西方の防衛に集中できる。


「承知いたしました。そして、条約締結と同時に、彼らに旧式武器の売却を提案します。彼らは武器を渇望しており、その代金は、我々の『赤い鉄壁』と新型中戦車の資金源として、非常に有効となるでしょう。」


 スターリンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、冷酷な計算と、狡猾な戦略が結実した瞬間にだけ現れる笑みだった。

「うむ。よろしい。その武器売却も、表向きは『友邦への人道的支援』とでもしておけ。だが、価格は足元を見られぬよう、巧妙に交渉せよ。そして、決して我々の真の目的──『赤い鉄壁』と新型中戦車──の資金源であるとは悟らせるな。」


 彼は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、窓の外、クレムリンの夜空を見上げた。その瞳の奥には、来るべき大戦に向けた、ソビエト連邦の国家戦略が静かに、しかし確実に形作られていく光景が映し出されていた。日中戦争の火種は、ソ連にとって、極東の負担を軽減し、同時に軍事費を捻出する「機会」となりつつあった。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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