1937年初夏・モスクワ クレムリン内 会議室
※本話では、ソ連技術陣が長い試行錯誤の末に辿り着いた、新型戦車「OT-34M」の走行試験が描かれます。
1937年の工事演習で泥に沈んだ旧型試作車が、いかにして進化を遂げたのか。
氷と泥が支配する試験場を舞台に、現場の兵士と設計者の執念が結実する瞬間が訪れます。
それは単なる機械の改良ではなく、来るべき独ソ戦への「静かな先制攻撃」であり、国家戦略の核心でした。
駆動する鋼鉄に込められた意思を、ぜひご覧ください。
【1937年初夏・モスクワ クレムリン内 会議室】
モスクワのクレムリン、重厚な会議室の空気は、真夏の兆しにもかかわらず重く冷え切っていた。長机の端に座るヨシフ・スターリンは、愛用のパイプから立ち上る煙の奥で、黙々と書類を読み込んでいた。彼の前には、期待を込めて進められていた新型重戦車KV試作車の報告書が置かれている。しかし、そこには「機構複雑」「整備性に難あり」「量産非効率」と、赤字が踊っていた。
スターリンは静かに眼鏡を外すと、それを机に置いた。その動作一つで、室内の空気はさらに張り詰める。
「……KVは確かに装甲も火力もある。だがな。あれは『革命の記念碑』ではない。戦場に間に合わなければ、我々にとっては何の意味もなさない。」
技術将校たちは、その冷徹な言葉に沈黙した。彼らが誇る重戦車計画が、あっさりと否定されたのだ。スターリンは、その視線を、緊張した面持ちで佇むズブツォフ技術主任へと向けた。
「我々に必要なのは、動く鉄の農民だ。泥濘でも走り、凍土でも走り、そして死ぬまで走り続ける機械だ。それが……T-34というのかね?」
ズブツォフは、ゴクリと唾を飲み込み、確かな声で答えた。
「はい、同志スターリン。まだ未完成ではありますが、駆動と装甲のバランスが良く、量産も容易です。」
スターリンは、KV重戦車の生産計画書を丸ごと脇に押しやり、次の書類――ウクライナからワルシャワへと向かう、まだ机上の空論に近かった鉄道計画案に目を移した。
「再度言うが、この線路だ。戦争になったら、わが赤軍は退かざるを得ない。だが、ただ退くだけで終わるものか。敵をおびき寄せ、燃料を尽かせ、そしてワルシャワで両側から挟み込む。……ミンスクとオデッサ、そこを包囲の起点とする。」
国防人民委員シャポシュニコフは、その言葉に思わず漏らした。
「……包囲殲滅。昨年お聞きしましたが、まるで敵が電撃戦を仕掛けることを想定しているようですな。」
スターリンは、感情の見えない笑みを浮かべた。
「敵が電撃戦を仕掛けない理由があるかね? 我々と同じように、奴らも焦っている。」
彼は壁に掛けられた巨大なソ連の地図に視線を移し、ドニエプル川の線を冷たい指でなぞった。
「早急に要塞を築け。泥に埋もれる場所ならば、鉄とコンクリートでそれを支えろ。重戦車の生産はその分やめだ。資材も労働力も――すべて、線路と砲台に回せ。」
ソ連は、ドイツの新たな脅威を正確に察知し、従来の重戦車による一点突破の力に対し、数と機動性、そして歩兵との連携による総合的な戦闘力という、独自の戦略を選んだ。この日、スターリンの冷徹な決断により、T-34と対戦車砲の改良は加速され、後に「赤い鉄壁」を支える、新たな道筋が明確に示されたのだ。
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