1937年 3月:ウクライナ西部演習地 “工事演習001”
※本話では、要塞計画を前提とした「工事演習」が初めて実施されます。
軍事演習と土木作業の融合という未曽有の試みに、現場の兵士や技術者たちがどう挑むのか。
実地試験の裏に潜む“粛清の眼”と、“報告書”では語られない現場の混乱にご注目ください。
【1937年 3月ウクライナ西部演習地】
冷たい風が吹きつける、広大なウクライナ西部の平原。枯れ草がどこまでも続き、人影はまばらなその荒野に、“工事演習001”と名付けられた異様な光景が繰り広げられていた。まだ砲塔もない、むき出しの鉄板で覆われた試作下部車体“OT-34”(Off-road Test T-34)が数台、沼地沿いのぬかるんだ地形に、鉄のバケモノのような姿で立ち向かう。フロントには粗末な排土板、後部には巻き上げ用のクレーンとウインチ。それは巨大な農耕機に見えたが、そのずんぐりとしたシルエットには、やがて来る時代の戦車の原型が秘められていた。その鈍重な車両を操るのは、戦車部隊から派遣された若い兵士たち。彼らの顔には、緊張と疲労の色が浮かぶ。
整地班指導官のカラシニコフ中尉の怒鳴り声が、凍える風に乗って響き渡る。
「前進!25度左に旋回!――ストップ!……何をしている、後退だ!クラッチを切り替えろ!」
車内では、新兵オレグが必死にレバーを操作する。
「くそっ、左履帯が滑って……!」
ギヤ音が悲鳴を上げ、車体が沼に沈みかけながらも、泥水を跳ね上げてギリギリで抜け出した。泥と草が絡みついた履帯は、まるで生き物のように粘りつき、噛み合いが悪くなっていた。
傍らでメモを取っていた技術員ニキーチンは、眉間にしわを寄せ、細かく記録していく。
「第4号機、履帯テンション調整不足。回転トルク不足。油圧駆動が加熱……要改良だ。」
午後になり、冷たい日差しが傾き始めた頃、別の車両が、より急峻な斜面を登っていた。今度は、経験を積んだオペレーターであるアレクサンドル軍曹が操縦桿を握っている。彼の操縦は無駄がなく、まるで本物の戦車戦のような、流れるような動きを見せる。
カラシニコフ中尉は、その様子をじっと見つめ、小声で隣の部下につぶやいた。
「……アレはもう“戦車兵”じゃないな。“戦術工兵”だ。旋回も前進後退も、迷いがない。」
日が沈みかけた頃、整地作業で削られた斜面が、突然ゴロゴロと音を立てて再び崩落した。地面が大きく揺れ、車両が横転しかける絶体絶命の危機。しかし、アレクサンドル軍曹は冷静沈着に操縦桿を捌き、見事に車両を立て直して切り抜けた。
カラシニコフ中尉は、安堵の息を漏らす。
「……こうして経験を積めば、実戦でぬかるみにハマっても、必ずや生還できる兵士が育つだろう。」
ニキーチン技術員は、崩れた斜面をじっと見つめていた。
「そして、その間に我々は……いかなる過酷な状況下でも故障しない機械を作り上げる。兵士が信じ、頼ることができる、絶対的な信頼性を持つ機械を完成させるのだ。」
それは、来るべき「赤い鉄壁」の基礎を築くための、兵士の訓練であり、同時に新型車両の過酷な試験だった。荒地を走り、泥に沈み、故障しながら改善されていく機械と、その中で技術を磨き、経験を積む兵士たち。このウクライナの凍てつく平原には、巨大な要塞建設に見せかけた、鉄と技能の鍛錬場が密かに存在していた。その槌音は、ソビエト連邦が来るべき運命に備え、自らの牙と爪を研ぎ澄ませる音だったのだ。
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