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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1940年5月10日:チャーチル首相誕生

【1940年5月9日・ロンドン 庶民院】


 ロンドンのウェストミンスター宮殿にある庶民院は、かつてないほどの熱気に包まれていた。議場は満員で、議員たちの興奮したざわめきが、重々しい空気を震わせていた。議題は、ノルウェー戦役における英国軍の惨憺たる敗北、そして、首相ネヴィル・チェンバレンの指導力に対する不信任案だった。


 首相のネヴィル・チェンバレンは、疲労困憊した様子で演壇に立った。彼の顔には、積年の疲労と、何よりも国民からの信頼を失いつつあることへの絶望が刻まれていた。彼は、外交による平和維持に全てを賭けてきたが、その努力は、ドイツの電撃戦によって無残にも打ち砕かれた。そして、ソビエト連邦との、国民には知らされていない「不透明な」取引が、彼の政治生命を内側から蝕んでいた。彼は、ソビエトの軍事転用への疑念を抱きながらも、ドイツとの全面戦争を避けるため、そして東方に新たな敵を作らぬため、戦略物資の供給継続という苦渋の決断を下した。その決断が、今、彼の首を絞めようとしていた。


 チェンバレンは、消え入りそうな声で、ノルウェー戦役の失敗を説明しようとした。

「…我が軍の勇敢な兵士たちは、最善を尽くしました。しかし、敵の予想を上回る進撃速度と、天候の急変により、我々は…」


 しかし、彼の言葉は、野党議員からの怒号によってかき消された。


「首相はどこを見ていたのだ!」

「これ以上の犠牲は御免だ!」

「責任を取れ!」


 労働党党首クレメント・アトリーが、厳しい表情で立ち上がった。

「首相閣下! ノルウェーの惨状は、もはや弁解の余地がありません! 我々は、貴方の指導の下で、あまりにも多くのものを失いすぎた! ドイツの軍事力に対し、貴方の政権はあまりにも無策であり、そして、我が国の安全保障に関わる重要な外交交渉において、国民に対する説明責任を果たしていない! 我々は、貴方の指導力に、もはや信頼を置くことはできません!」


 議場の雰囲気は、すでにチェンバレンに背を向けていた。彼の支持者も、彼を守りきれないことを悟っていた。特に、前日の夕刊で、ソビエトへのゴム製品輸出が、実際にはソビエトの軍事産業、特に戦車開発に転用されている可能性が高いという、匿名情報源からのリーク記事が一面を飾ったことが、決定的な打撃となっていた。記事は、ハルキウの「重機工場」の視察団からの内部情報をもとに、英国政府がソビエトの欺瞞を知りながら、それを黙認しているかのように書かれていた。


 保守党のベテラン議員、レオ・エイマリーも、チェンバレンに引導を渡すかのように、シェイクスピアの言葉を引用した。

「『われわれは、ここを去れ、速やかに!』この言葉は、今こそ、貴方の心に響くべきでしょう、首相!」


 議場のざわめきは、怒号へと変わり、チェンバレンの退陣を求める声が議場全体に響き渡った。チェンバレンは、顔を蒼白にして、視線を落とした。彼は、自らの政治生命が終わりを告げたことを悟った。ソビエトとの「秘密の取引」という、国家の存亡をかけた判断が、回り回って、彼を追い詰めたのだ。


【1940年5月10日・ロンドン ダウニング街10番地 首相官邸】


 翌日、ロンドンに朝の霧が立ち込める中、ダウニング街10番地の首相官邸では、激しい政治交渉が夜を徹して行われていた。チェンバレンの退陣は不可避となり、次期首相の座を巡って、各党の重鎮たちが駆け引きを繰り広げていた。


 疲弊しきったチェンバレンは、ついに国王ジョージ6世に辞表を提出した。彼は、最後に自らの選択を振り返り、国民に真実を伝えることができなかった後悔に苛まれていた。ソビエトとの取引が、彼を泥沼にはめ込んだのだ。


 数時間にわたる議論の末、保守党内の有力者、そして労働党との連立交渉が合意に達した。誰もが、この国家存亡の危機において、強力な指導者が必要であると感じていた。そして、その人物とは、他ならぬ、ウィストン・チャーチルだった。


【1940年5月10日・ロンドン ダウニング街10番地 首相官邸】


 その日の夕方、ウィストン・チャーチルは、国王の招きに応じ、バッキンガム宮殿からダウニング街10番地へと向かった。重厚な扉をくぐり、官邸に入った彼の表情は、これまでとは一変していた。そこには、長年の雌伏を経て、ついに国家の命運を担うことになった男の、決意に満ちた顔があった。


 彼は、首相執務室の机に着くと、深く息を吐き出した。その日の夜、彼はラジオを通じて国民に語りかけることになっていた。彼の胸には、戦いへの覚悟と、国民へのメッセージが強く響いていた。


 彼は、静かに呟いた。

「血と労苦と涙と汗以外に、私は何も差し出すものがない。」


 チェンバレンが築き上げた「和平の夢」は、今、完全に打ち砕かれた。そして、ソビエトとの不透明な関係が、その夢の崩壊に拍車をかけた。新たに首相の座に就いたチャーチルは、もはや外交的妥協の余地はないことを悟っていた。彼の前には、ドイツという強大な敵との、避けられない全面戦争が横たわっていた。


 英国は、チェンバレンの時代を終え、チャーチルの時代へと突入した。それは、平和への希望を捨て、戦いへと身を投じる、英国史における決定的な転換点となった。そして、ソビエト連邦との複雑な関係は、新たな指導者の下で、さらなる変化を遂げることになるだろう。

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