1940年3月:中立の仮面 スウェーデンの取引
【1940年3月・ストックホルム 外務省】
スウェーデン外務省の重厚な応接室は、穏やかな春の陽光が差し込むにもかかわらず、微妙な緊張感を孕んでいた。ソ連の外交官ヴォロノフは、ソファの向かいに座るスウェーデンの外務大臣ウンデンから、フィンランドとの冬戦争の結果を注意深く分析した、スウェーデン政府の真の意図を探り出そうとしていた。伝統的な中立政策を掲げるスウェーデンだが、隣国フィンランドの苦境と、ソ連の圧倒的な軍事力を見過ごすことはできなかったのだ。
ウンデン外相は、慎重な言葉遣いで切り出した。その声は穏やかだが、その奥にはしたたかな外交官の顔が覗いていた。
「ヴォロノフ閣下。貴国とフィンランドの間の紛争は、遺憾ながら多くの教訓を我々に残しました。スウェーデンは、今後もその中立性を堅持する所存ですが、同時に、貴国との経済的な関係を維持し、発展させることは、地域の安定にとっても重要であると考えております。」
ヴォロノフは、その言葉の裏にある意図を測りかねていた。スウェーデンが中立を維持したいのは明らかだが、その「経済的な関係の維持・発展」という言葉には、何か含みがあるように感じられた。それは、単なる友好関係の維持以上の意味合いを持っているように思えた。
ヴォロノフは、探るように問いかけた。
「ウンデン大臣。ソビエト連邦も、貴国の中立政策を尊重いたします。経済的な協力は、両国にとって有益でありましょう。具体的には、どのような分野での協力をご検討されておりますか?」
ウンデンは、テーブルの上に用意していた書類をヴォロノフに手渡した。その書類の表紙には、既に具体的な品目が記されている。
「まず、貴国の工業発展に不可欠な高品質のボールベアリングを、スウェーデンから安定的に供給することを提案いたします。我々の製品は、精密機械の製造において高い評価を得ており、貴国の戦車や航空機の生産にも貢献できるでしょう。」
ヴォロノフは、その提案に内心で驚きを隠せなかった。ボールベアリングは、まさにソ連が質と量ともに確保に苦労している戦略物資だった。特に、高速で稼働する戦車のエンジンや、航空機の高性能化には不可欠な部品であり、これを安定的に確保できることは、ソ連の軍事産業にとって計り知れない恩恵となる。
ウンデンは、ヴォロノフの表情の変化を読み取りながら、さらに続けた。
「その見返りとして、スウェーデンの鉄鋼業は、貴国からの高品質な鉄鉱石の輸入を希望しております。特に、貴国のクルスク地域で産出される鉄鉱石は、不純物が少なく、品質が高いと聞いております。」
ヴォロノフは、ウンデンの提案の真の意図を理解した。スウェーデンは、中立という立場を守りながらも、フィンランドでの戦訓を踏まえ、将来的にソ連との関係が悪化した場合のリスクを軽減するため、戦略物資の相互供給という形で、間接的な保険をかけようとしているのだ。ソ連の軍事力への警戒と、実利を求める外交姿勢がそこにはあった。
ヴォロノフは、満足げに頷いた。
「ウンデン大臣。貴国の提案は、真摯に受け止めさせていただきます。ボールベアリングは、我が国の機械工業にとって重要な資材であり、鉄鉱石の輸出は、貴国の産業に貢献できるでしょう。詳細については、専門家同士で協議を行い、具体的な供給量と価格について詰めることといたしましょう。」
交渉は、両国の国益が一致する形で、順調に進められた。スウェーデンは、中立の立場を維持しながらも、ソ連との経済的な繋がりを確保し、将来的な安全保障に備えようとした。ソ連は、喉から手が出るほど欲しかった高品質のボールベアリングを手に入れる道筋をつけ、同時に、重要な輸出品目である鉄鉱石の新たな販路を確保した。
こうして、中立という仮面の下で、スウェーデンとソ連の間には、戦略的な取引が静かに成立しようとしていた。フィンランドの攻防は、遠く離れたスウェーデンの外交政策にも、微妙な影を落とし、ヨーロッパの政治地図に新たな線を引いていたのだった。




