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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1939年12月末:ドイツからの亡命者たち

【1939年12月末・ベルリン郊外 隠れ家】


 1939年の年の瀬、ベルリンの街はクリスマスの喧騒と、開戦したばかりのポーランド戦の勝利に沸き立つ祝祭ムードに包まれていた。しかし、その華やかな表層の下では、暗い影が蠢いていた。特にユダヤ人に対する迫害は、1938年11月の「水晶の夜」以降、公然と、そして組織的に行われるようになっていた。


 ベルリン郊外のひっそりとした隠れ家で、数名の男たちが息を潜めていた。彼らはみな、かつてドイツが世界に誇った科学者たちだった。その中に、かつてカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所で中核的な研究をしていたヘルムート・ヴァイス博士の姿もあった。痩せた顔には深い疲労が刻まれているが、その瞳の奥には、未だ知への渇望と、ナチスへの拭い難い憎悪が燃え盛っていた。


 ヴァイス博士は、隣に座る男、NKVDのニコライ・イワノフに、震える手で小さな包みを差し出した。それは、彼の研究ノートと、わずかな家族の写真だった。


「同志イワノフ、我々は、祖国を追われ、自由を奪われた。しかし、我々の知識だけは、誰にも奪えない。ナチスが、この知識を悪用することを、私は決して許さない。」


 イワノフは、表情一つ変えずに包みを受け取った。彼は数ヶ月前、「水晶の夜」の直後から、モスクワからの指令を受け、秘密裏にドイツ国内のユダヤ系科学者たちと接触を続けていた。ソビエトは、来るべき戦いに備え、あらゆる優秀な頭脳を自国に引き入れる機会を虎視眈々と狙っていたのだ。


「ヴァイス博士、貴方方の決断に感謝する。ソビエト連邦は、真の科学者たちを、常に歓迎する。貴方方の知識と才能は、人類の進歩と、ファシズム打倒のために必ずや役立つだろう。」


 イワノフの言葉は、ヴァイス博士の心にわずかな光を灯した。彼らは、ナチスの支配から逃れるためなら、共産主義国家であるソビエトへの亡命すら厭わなかった。その中には、合成ゴムの分野で画期的な研究成果を上げていた化学者や、最新の冶金技術に精通した技術者も含まれていた。


 年末年始の警備が緩くなるこの時期は、彼らにとって絶好の亡命の機会だった。NKVDは、周到な計画を立て、スウェーデン経由で彼らをソビエトへ移送する手はずを整えていた。


【1940年1月上旬・ソ連某秘密研究施設】


 年が明け、彼らが降り立ったのは、雪に覆われたソビエトの秘密研究施設だった。そこは、外部から完全に隔絶された場所であり、同時に、最新鋭の設備が整えられた、科学者にとってはある種の「楽園」でもあった。


 ヴァイス博士は、用意された研究室を見て、息を呑んだ。それは、彼がドイツで失った研究環境を凌駕するほどのものであり、彼に与えられた研究テーマは、まさに彼が探求し続けてきた分野だった。


「我が国は、貴方方の知識を最大限に活用する。貴方方は、ここで思う存分、研究に没頭していただきたい。特に、ドイツで進められていた合成ゴムの研究成果について、詳細を教えていただきたい。」


 NKVDの管理官が、彼らを歓迎する言葉を述べた。ヴァイス博士は、隣に立つ合成ゴムの研究者、ハンス・シュミット博士と顔を見合わせた。


「我々は、喜んで協力しましょう。ナチスの手から科学を守るため、そして、自由のために。」


 ハンス・シュミットは、既にソビエトが開発していた合成ゴムの製法について、その技術的な欠点や改善点について詳細な知見を共有した。ドイツは、ゴム輸入の脆弱性から、戦前から合成ゴムの研究に力を入れており、その技術はソビエトを大きくリードしていたのだ。彼がもたらした情報は、ソビエトの軍需産業の長期的な課題であったゴム不足を解決する、決定的なブレイクスルーとなる可能性を秘めていた。


 ドイツから亡命してきた科学者たちは、祖国への深い絶望を胸に抱きながらも、新たな地で、新たな研究に没頭することになった。彼らが持ち込んだドイツの最先端技術と知識は、ソビエトが築き上げようとしている「赤い鉄壁」の、目には見えないが強固な基盤となるだろう。そして、彼らの功績は、来るべき独ソ戦において、ドイツ自身が手放した「頭脳」によって、その運命を大きく左右されることになるとは、この時誰も予想していなかった。

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