1936年 秋・モスクワ 重工業人民委員部 本庁舎
※要塞構想は、現場の技術者たちによって動き出します。
本話は、重工業人民委員部での会議と、設計局の選定、リソース配分に関する駆け引きが中心です。
技術者と政治指導者の板挟みにされる現場の人間模様にご注目ください。
【1936年 秋・モスクワ 重工業人民委員部 本庁舎】
人民委員部本庁舎の巨大なホールには、未だ革命の熱気を閉じ込めたかのような、重く澱んだ空気が満ちていた。高々とそびえる柱には、かつての栄光を讃えるポスターが色褪せて貼られ、壁には建設途上の工場群や、社会主義の繁栄を謳うスローガンがひび割れて残っている。その中を、シャポシュニコフは建築部門主任の官僚、セルゲイ・ペトロヴィチ・グーセフと並んで歩き、壁にかけられた巨大なドニエプルダムの空撮写真を見下ろしていた。そこには、1932年に完成した偉大な建築物が、今もなおソビエトの力を象徴するように堂々と佇んでいる。壁の隅には、建設当時の熱気を伝えるかのように「五カ年計画はソビエトの力なり」という標語が、誇らしげに掲げられていた。
シャポシュニコフは、その写真に目を細め、静かに切り出した。
「やあ、セルゲイ・ペトロヴィチ。32年に完成したこのダム――あれのおかげで電力供給も安定し、都市開発もだいぶ進んだ。……実にすばらしい成果だ。」
グーセフは、将軍の言葉に顔をほころばせた。彼は、ソビエトの発展を自らの手で築き上げてきたという誇りを胸に抱いている、典型的な模範的官僚だった。
「ありがとうございます、同志将軍。我々も誇りに思っております。今のところ、洪水管理も発電も正常に稼働しています。計画は順調そのものです。」
シャポシュニコフは、顔色一つ変えずに眼鏡の位置をそっと直し、本題へと入る。その声は穏やかだが、その裏には決して譲れない意志が宿っていた。
「うむ……さて、セルゲイ・ペトロヴィチ。スターリン閣下から、ドニエプル川の堤防について念のための強化を進言されている。特に重点的に工事を行う地点は、追って軍から指示される手はずだ。今はまだ非公式だが、軍の試験車両を工事用機械として投入する案もある。……土木演習という名目でな。」
グーセフの顔から、たちまちにこやかな表情が消え失せた。彼は将軍の言葉の裏に隠された真意を、瞬時に読み取ったのだ。彼の瞳には、厳しい現実を受け入れたかのような、しかし有無を言わせぬ決意が宿る。
「なるほど……了解いたしました、同志将軍。つまり、演習名目で堤防補強と……関連施設の建設を、ということですね?」
シャポシュニコフは、その素早い理解に満足げに微笑んだ。
「察しがいいな、助かる。必要な資材、特に鋼鉄、セメント量の増加を、少しずつ公共防災の枠で計上しておいてくれ。配備予定地は後日リストにして出す。」
グーセフは、声を潜めて応じた。彼の声には、すでに国家の秘密の一端を担う者としての、責任感が滲み出ていた。
「了解いたしました。全ての記録は河川整備計画付帯事項として処理し、いかなる疑念も生じさせません。」
シャポシュニコフは、再び穏やかな笑みを浮かべた。その目は、グーセフの心の奥底を見透かすかのように鋭かった。
「よろしい。それから……この話は、我々だけのものだ。分かるな?」
グーセフは、軽く、しかし明確に頷いた。
「当然です、同志将軍。国家の利益のために。」
こうして、ドニエプル川沿いの“要塞線”構築計画は、一切の軍事色を排した土木計画として、ソビエト国家の奥深くに静かに浸透していった。全ては、ドイツとの不可侵条約など「信じていない者たち」によって、水面下で着実に動き出していた。彼らの心には、来るべき戦火への覚悟と、祖国を守るための冷徹な計算が、深く刻み込まれていた。
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