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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1939年8月:独ソ不可侵条約交渉

【1939年8月21日・モスクワ クレムリン】


 モスクワのクレムリン、スターリンの執務室は、夜だというのに熱気に包まれていた。テーブルには、インクの染みがついた外交電報が散乱し、パイプの煙が重く漂っていた。外務人民委員のヴャチェスラフ・モロトフは、分厚い報告書を手に、スターリンの前に立っていた。その報告書には、ドイツからの急進的な提案が記されている。


「同志スターリン。ドイツからの返答が来ました。リッベントロップ外相は、わずか二日でモスクワを訪問し、不可侵条約に調印することを望んでいます。彼らは、ポーランド問題の解決、バルト三国、そしてフィンランドにおけるソビエトの『特別な利害』についても、踏み込んだ譲歩を示唆しています。」


 スターリンは、パイプをゆっくりと吹かしながら、冷たい目でモロトフを見つめた。彼の表情からは、感情を読み取ることはできない。

「特別な利害、か。ずいぶん都合の良い言葉を使うものだ。彼らは、本当に我々との協定を望んでいるのか?」


 モロトフは、慎重に言葉を選んだ。

「はい。電報のトーンは切迫しており、彼らがポーランド侵攻を目前に控えていることは明らかです。西側諸国との交渉が暗礁に乗り上げている今、ソビエトを中立に引き込み、あるいは少なくとも敵に回さないことは、ドイツにとって喫緊の課題なのでしょう。」


 スターリンは、低い声で呟いた。

「愚かな連中だ。イギリスもフランスも、ファシストの増長を許した挙句、今になって私に助けを求めている。だが、彼らは本気ではない。我々を単なる捨て駒と考えているに過ぎん。ドイツは、彼らの『友好』よりも、はるかに具体的な見返りを用意している、ということか。」


 彼は立ち上がり、執務室の窓からモスクワの夜景を見下ろした。その眼差しは、遠く西方のヨーロッパに向けられているかのようだった。

「我々が『赤い鉄壁』を完成させるには、時間が必要だ。西側からの直接的な脅威を排除し、内部の体制を盤石にする。ドイツの提案は、そのための時間稼ぎとなる。彼らは、我々を一時的に利用しようとしているが、我々もまた、彼らを利用するのだ。」


 モロトフは、スターリンの真意を理解した。これは、単なる外交的勝利ではない。来るべき大戦に備え、ソビエトが生き残るための、究極の「時間稼ぎ」であり、隠蔽された防御計画を完成させるための、偽りの友好だった。


【1939年8月23日・モスクワ クレムリン 外務人民委員部】


 真夏のモスクワは、かつてないほどの緊張に包まれていた。ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップを乗せた飛行機が、モスクワに到着したのだ。本来はベルリンで行われるべき条約交渉が、わずか二日でソビエトの首都で行われるという異常事態に、世界は固唾を飲んだ。


 外務人民委員部の豪華な会議室では、リッベントロップが、モロトフ、そしてスターリン本人と向かい合っていた。リッベントロップの顔には、長距離移動の疲れと、大仕事への興奮が入り混じっていた。


 リッベントロップは、切り出した。

「閣下。我々は、歴史的な協定を結ぶためにここに来ました。ドイツとソビエト連邦は、互いに不可侵を誓い、いかなる紛争も平和的手段で解決することを約束する。」


 モロトフは、無表情で頷いた。そして、本題へと入った。

「その不可侵協定に加え、我々は、東ヨーロッパにおける相互の利害関係について明確な合意を求めております。ポーランドの分割線、バルト三国、フィンランド、そしてルーマニアのベッサラビアについて、貴国の具体的な見解を伺いたい。」


 リッベントロップは、一瞬ためらったが、ヒトラーからの厳命を思い出し、用意された秘密議定書の草案を取り出した。

「もちろんです。我々は、ポーランドにおいて、ナレフ川、ヴィスワ川、サン川に沿った分割線を提案します。そして、バルト三国──エストニア、ラトビア、リトアニア──そしてフィンランドは、ソビエト連邦の独占的な勢力圏にあることを認めます。ルーマニアのベッサラビアについても、貴国の主張を尊重しましょう。」


 彼は、次々とドイツの譲歩を示していった。それは、西側諸国がドイツとソ連の間を隔てるはずだった緩衝地帯を、両国が分割統治するという、冷酷な現実だった。モロトフは、彼の言葉を注意深く聞き取り、スターリンに視線を送った。スターリンは、無言で頷いた。


 交渉は、驚くべき速さで進んだ。形式的な議論はほとんどなく、両国の代表は、互いの「利害」を確認し、秘密裏に東ヨーロッパの地図を塗り替えていった。互いに利用し、互いに欺こうとする、その冷徹な思惑が交錯する。


 日付が変わる直前、モロトフ・リッベントロップ条約が調印された。その裏には、秘密議定書が隠されていることを、この場のわずかな人間しか知らなかった。条約が調印されると、リッベントロップは安堵の表情を見せ、スターリンは、その冷徹な顔にわずかな満足の笑みを浮かべた。


 偽りの平和

 条約調印のニュースは、世界に衝撃を与えた。英仏は、ソ連の裏切りに憤慨し、ドイツはポーランド侵攻への道を確固たるものにした。しかし、ソビエト連邦にとって、この条約は、来たるべき大戦に備え、「赤い鉄壁」を築くための、極めて重要な時間稼ぎとなった。


 スターリンの冷徹な計算は、着実に実行に移されていく。この条約によって、ソビエトは、西側からの直接的な脅威に直面することなく、軍備増強と要塞建設に集中できる貴重な猶予を手に入れたのだ。世界の外交史に残る大転換は、ソビエトの静かなる防衛計画を、さらに加速させることになる。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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