1939年 7月:「赤い鉄壁」の翼ソ連空軍、戦略転換の時
【1939年 7月・モスクワ 国防人民委員部 会議室】
モスクワの夏は、熱気を帯びた季節だった。国防人民委員ヴォロシーロフが主宰する会議室には、空軍総司令官ジューガノフ、参謀総長シャポシュニコフ、そして航空技術局長スミルノフらが集まっていた。彼らの議題は、スターリンからの厳命、すなわち来るべき対ドイツ戦における空軍の戦略見直し、特に航空機の生産配分と機種構成についてだった。
ヴォロシーロフは、重々しい声で口火を切った。
「同志諸君、スターリン同志からの指示に基づき、来るべき対ドイツ戦における空軍の戦略について検討する。特に、航空機の生産配分と機種構成について、集中的な議論を行う必要がある。」
ジューガノフは、壁に掛けられた地図を指しながら、現状の課題を提示した。
「現状の空軍力は、爆撃機に偏重していると言わざるを得ません。航続距離は長いものの、鈍重で敵戦闘機の格好の餌食となる。制空権を確保できなければ、これらの爆撃機は宝の持ち腐れとなるでしょう。」
スミルノフが技術的な観点から補足した。
「技術的な観点からも、中型・大型爆撃機の開発と生産には、高度な技術と希少な資材を多く必要とします。一方で、新型戦闘機や近接支援機の開発は着実に進んでおり、量産体制も比較的容易に構築できます。」
シャポシュニコフは、陸軍の戦略との連携を強調した。
「陸軍の戦略、特にドニエプル川沿いの要塞線構築を考慮すると、空軍の主たる任務は、敵の航空攻撃からの防衛と、地上部隊への直接支援となるべきでしょう。敵の戦略拠点を長距離爆撃するよりも、敵の侵攻を阻止することに重点を置くべきです。」
ヴォロシーロフは、三人の意見の核心を捉えた。
「つまり、空軍の生産の重点を、制空戦闘機と近接支援機に移すべきだと?」
ジューガノフとスミルノフは力強く頷いた。
ジューガノフが、具体的な機種名を挙げた。
「その通りです。Yak-1やMiG-1といった新型戦闘機は、速度と運動性に優れ、敵戦闘機との格闘戦で優位に立てます。Il-2『シュトルモヴィク』は、強力な装甲と武装を持ち、地上部隊への効果的な支援を提供できます。」
スミルノフは補足した。「爆撃機の開発を完全に停止するわけではありませんが、優先順位を大幅に下げるべきです。既存の爆撃機部隊は、夜間爆撃や輸送任務に限定的に運用することを検討すべきでしょう。」
ヴォロシーロフは、各人の意見を聞き終えると、重々しく頷いた。
「諸君の意見は理解した。これは、我が赤軍の戦略全体、そして国家の資源配分に関わる重要な決定だ。この結論を、スターリン同志に報告し、承認を仰ぐ必要がある。」
同日夜・クレムリン内 スターリンの執務室
その夜、モスクワの空に星が瞬き始める頃、ヴォロシーロフは、煙草の煙が立ち込めるスターリンの執務室で、彼に対面していた。机の上には、空軍の機種別生産計画案が置かれている。
ヴォロシーロフは、昼間の会議の結論を簡潔に報告した。
「同志スターリン、先ほど軍幹部との会議を持ち、来るべき対ドイツ戦における空軍の戦略について議論いたしました。結論として、航空機の生産の重点を、制空戦闘機と近接支援機に移すべきとの意見で一致いたしました。」
スターリンは、書類から目を離さずに、短く問うた。
「理由は?」
ヴォロシーロフは、会議での議論の内容を簡潔に報告した。敵の航空脅威への対抗、地上部隊支援の重要性、資源の集中、そしてドニエプル要塞線防衛との連携などを強調した。
「中型・大型爆撃機の生産を控えることは、戦略爆撃能力の低下を意味しますが、現状の我々の戦略目標、特に敵の電撃戦を阻止し、要塞線で持ちこたえるためには、制空権の確保と地上部隊への直接的な支援が不可欠であると判断いたしました。」
スターリンは、報告書に目を落としたまま、しばらく沈黙していた。執務室には、薪が爆ぜる音だけが響く。やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……理屈は分かった。敵の頭上を制し、地上部隊を支援する。焦土戦術にも繋がる考え方だな。だが、敵の奥深くに打撃を与える手段を捨てることに、不安はないのか?」
ヴォロシーロフは、間髪入れずに答えた。
「長期的な視点で見れば、戦略爆撃能力も必要となるでしょう。しかし、差し迫った脅威、すなわちドイツの機甲戦力と航空戦力に対抗するためには、まず足元を固めることが重要です。制空権を失えば、いかなる爆撃機も無力となるでしょう。」
スターリンは、再び書類に目を落とし、指で生産計画案の数値をなぞった。彼の脳裏では、ソ連の未来をかけた資源配分のシミュレーションが瞬時に行われている。
「よろしい。この方針を承認する。だが、戦闘機と近接支援機の開発と生産を滞りなく進めること。そして、将来的な戦略爆撃の必要性も念頭に置き、技術開発は継続するように。」
ヴォロシーロフは、安堵の表情で深く頭を下げた。
「承知いたしました、同志スターリン!直ちに空軍に指示を伝え、生産体制の切り替えを開始いたします。」
スターリンは、煙草の灰を落とした。その視線は、クレムリンの窓の向こう、広大なソ連の夜空を見据えているかのようだった。
「空は、我々の兵士を守る盾となれ。そして、敵の侵攻を阻む壁となれ。それが、新たな空軍の使命だ。」
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