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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1939年5月上旬・モスクワ クレムリン

 モスクワの夜は、まだ肌寒さが残っていた。クレムリンの深く重い執務室には、ただ暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。ヨシフ・スターリンは、深夜にもかかわらず送られてきた、NKVD(内務人民委員部)からの緊急報告書に目を凝らしていた。


 それは、極東、ハルハ河畔で以前から小競り合いが頻発していた日ソ国境の情勢が、一段と緊迫度を増していることを詳細に伝えるものだった。日本軍の兵力増強、偵察機の頻繁な越境、そして具体的な攻撃計画の兆候――報告は、単なる小競り合いでは終わらない、来るべき大規模な衝突が避けられないことを示唆していた。


 スターリンの表情は変わらない。しかし、その瞳の奥には、氷のような冷徹な計算が宿っていた。彼は報告書を机に置くと、深く息を吐き出した。

「愚かな日本人め……彼らは、我々が新たな時代に備えて、何を構築してきたか、全く理解していない。」

 彼の脳裏には、3年前から秘密裏に進めてきた「赤い鉄壁」構想、そしてその機動部隊の中核となる新型戦車T-34(当時はOT-34Mの発展型)の姿が浮かんだ。完成を間近に控えたこの兵器は、まだ実戦の洗礼を受けていない。


「ボリス・ミハイロヴィチ(シャポシュニコフ)を呼べ。そして、ジューコフにも緊急の連絡を取らせろ。極東の戦況は、単なる国境紛争ではない。これは、我々が来るべき大戦に備えて構築してきた、『戦車の魂』を試す、絶好の機会となるだろう。」


 数時間後、シャポシュニコフ国防人民委員が、眠い目をこすりながら執務室に現れた。スターリンは彼に報告書を渡し、無駄のない言葉で指示した。

「ハルハ河に、開発中の新型戦車を少数、極秘裏に投入する。前線で、その性能と信頼性を徹底的に評価させるのだ。日本軍には、それが何であるか、決して悟らせるな。NKVDが全輸送と情報管理を担当する。現地での指揮はジューコフに任せる。彼ならば、新型戦車の真価を見抜き、最大限に活用するだろう。」


 シャポシュニコフは、その大胆な決定に一瞬息を呑んだが、スターリンの視線に頷きで応じた。この命令は、ハルコフのズブツォフ設計局にとって、文字通り寝る間もないほどの過酷な準備を意味する。しかし、同時にそれは、彼らが血と汗を流して開発してきた「赤い鉄壁」の機動部隊が、初めてその牙を剥く瞬間となるのだ。


 モスクワの静かな夜の下で、歴史の歯車は、秘密裏に、しかし確実に、新たな方向へと大きく動き始めていた。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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