1939年4月下旬:新たな試み
【1939年4月下旬・モスクワ 赤軍砲兵総局 設計局】
モスクワの赤軍砲兵総局設計局では、イグナチェフ大佐の指揮のもと、来るべき戦いに備えた対戦車砲の改良が急ピッチで進められていた。しかし、彼の脳裏には、それだけに留まらない、はるかに大胆な構想が渦巻いていた。それは、来るべき反撃電撃戦において、砲兵部隊の機動力を飛躍的に向上させるための、まったく新たな車両開発計画だった。
イグナチェフは、設計図面が散乱する机の前に立ち、助手であるベロフに問いかけた。
「同志ベロフ、対戦車砲の軽量化は順調か?」
ベロフは、胸を張って答える。
「は!試作型の牽引重量は大幅に削減に成功しました。兵士による人力移動も、以前より格段に容易になるはずです。」
「よろしい。だが、それではまだ遅い。」イグナチェフは首を横に振った。「敵の機甲部隊の速度に追随し、随時火力支援を行うには、砲兵自身が『自力で走る』必要がある。」
彼は、机に広げられた複数の図面を指差した。一つは、T-26軽戦車の車体をベースにした、オープントップ式の自走砲の設計案。主砲は、改良型の76mm野砲を搭載する予定だ。
「これは『SU-76(仮称)』だ。既存の軽戦車の車体を流用することで、開発と量産を迅速に進める。機動力は十分だろう。敵の装甲車両だけでなく、陣地や集団にも効果的な榴弾を迅速に撃ち込む。」
ベロフは、その設計に感嘆しつつも、懸念を口にした。
「しかし同志大佐、オープントップでは乗員の防御が脆弱です。」
「承知している。だが、速度と数を優先する。敵の電撃的な進撃を食い止め、反撃の足がかりを作るには、一箇所に留まって撃つのではなく、常に移動しながら火力支援を行う必要があるのだ。」イグナチェフは、その設計の意図を力説した。
次にイグナチェフが示したのは、さらに異質な設計案だった。それは、トラックの荷台に多数のロケット弾発射機を搭載した、多連装ロケット砲の初期構想だった。まだ具体的な弾体や発射機構は粗いスケッチだが、そのコンセプトは明確だった。
「そして、これだ。『BM-8(仮称)』……いや、まだ名称は検討中だが。大量のロケット弾を一斉に発射することで、広範囲の敵陣地や集積地を瞬時に制圧する。精度は低いかもしれないが、敵の士気を挫き、戦線を混乱させるには十分な威力を持つだろう。トラックベースであれば、戦車よりも迅速に移動できる。」
ベロフは目を見開いた。その発想は、これまでの砲兵の常識を覆すものだった。
「これは……まさに『火の雨』ですね! しかし、弾薬の再装填には時間がかかるのでは?」
「その通りだ。だが、一度の斉射で敵に壊滅的な打撃を与え、その隙に我々の機甲部隊が反撃を開始する。それが狙いだ。砲兵は、敵の進撃を遅らせる静的な防御兵器ではなく、反撃の電撃を支援する動的な火力となるのだ。」
イグナチェフは、机に広げられたヨーロッパの地図上のワルシャワを指差した。
「我々の目標は、敵をドニエプルまで誘い込み、燃料と戦力を消耗させ、その上で機動的な砲兵の支援を受けた快速戦車部隊によって、ワルシャワ周辺で包囲殲滅することだ。そのためには、あらゆる手段を講じなければならない。自走砲、自走ロケット砲……これらは、そのための『鉄の足』となる。」
彼は、設計図を力強く叩いた。
「直ちにこれらの試作開発を始める。資源は惜しむな。砲兵の速度は、反撃の成否を左右するのだからな!」
赤い反撃の狼煙
重戦車の開発に集中する道を一旦断念したソ連は、砲兵の機動力を新たな反撃の鍵と見出した。イグナチェフの設計局で生み出された自走砲「SU-76」と、まだ黎明期にあった自走ロケット砲「BM-13」の構想は、砲兵部隊を敵の機甲部隊に追随できる『動く火力』へと変貌させようとしていた。
それは、静的な防御に徹する戦略から、ドイツの電撃戦に対抗し、大胆な反撃へと戦略を転換させる野心的な試みだった。この二つの兵器は、後に「赤い鉄壁」を支え、ソビエトの反攻を象徴する存在となるのである。
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