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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1938年8月:空軍の波紋

【1938年8月・モスクワ 空軍司令部 会議室】


 モスクワの空軍司令部会議室は、鉛色の重い空気が満ちていた。窓の外では、夏も終わりに近づき、時折冷たい風が吹き込む。長テーブルの向かいには、空軍司令官アルセニー・ソロヴィヨフ上将が険しい表情で座り、その前には、戦略爆撃ドクトリンを推進してきたヴァシリ・イヴァノヴィチ・グレコフ少将が、手に持った報告書を握りしめていた。彼の隣には、新世代の戦闘機開発を強く主張する、若き日のアレクサンドル・ヤコブレフ技術将校が、どこか不敵な笑みを浮かべて控えている。


 ソロヴィヨフ上将が、重い口を開いた。

「同志諸君。国防人民委員部からの新たな通達は、空軍の優先順位に大きな変更を求めるものだ。来るべき西方からの脅威に対し、我が空軍は国土防衛と地上部隊への直接支援を最優先とする。これに伴い、長距離爆撃機の生産目標は大幅に下方修正される。」


 グレコフ少将は、その言葉に顔をしかめた。彼はソビエト空軍の未来を、敵の奥深くに打撃を与える戦略爆撃にこそあると信じてきた。

「何だと!上将!これでは敵の工業地帯や兵站線を叩くことができないではないか!長距離爆撃機こそ、敵の士気を挫き、戦線を崩壊させる切り札となる!我々は、単なる地上部隊の援護隊ではない!戦略的空軍の意義はどこへ行ったのだ!」


 彼の激情に、会議室の空気が一層張り詰める。何人かの将校は、グレコフの過激な発言に顔をしかめたが、彼の意見に内心同意する者も少なくなかった。爆撃機こそ空軍の華であり、その削減は彼らのプライドを傷つけるものだった。


 しかし、ヤコブレフ技術将校は、この状況を好機と見ていた。彼は冷静な声で反論した。

「少将、冷静になっていただきたい。目前の脅威は、強力な地上部隊と、それに追従する敵の戦闘機群だ。我々が必要とするのは、彼らを迎え撃ち、我が領空を守る高性能な戦闘機と、地上部隊の進撃を支援する近接航空支援機だ。大型爆撃機は、高価で生産に時間がかかり、何よりも消耗が激しい。数が揃わなければ意味がない。それに、防衛戦において、敵の奥深くに打撃を与える余裕など、どこにあるというのです?」


 グレコフは、怒りに声を震わせた。

「それは空軍の戦略的思考の放棄だ! ヤコブレフ同志、貴官は若すぎる! 目先の防衛ばかりに囚われ、大局を見誤っている!」


 ソロヴィヨフ上将は、二人の間に割って入った。彼の表情には、既に決定が覆らないことを悟っているかのような諦めが滲んでいた。

「議論はこれまでだ。国防人民委員部の決定は固い。資金、資材、そして労働力は、陸軍の要塞建設、そして彼らの求める『鉄の農民』、すなわち次期中戦車の生産に優先的に投入される。空軍に回せる余力はほとんどない。その中で、我々は最も効率的な防衛体制を構築せねばならん。つまり、戦闘機と支援機こそが、喫緊の課題なのだ。」


 会議室には、重い沈黙が流れた。グレコフ少将は、その決定に打ちひしがれ、唇を噛み締めていた。彼の抱いていた、空軍の真価への期待は、冷徹な国家戦略によって打ち砕かれたのだ。


 密告の影

 その夜、グレコフ少将は、空軍士官クラブの片隅で、数人の同僚とグラスを傾けていた。彼の顔には、会議での不満が色濃く残っていた。


「戦術的空軍だと? まったく、陸軍の奴らは、空軍を便利な手足としか見ていない。我々が血と汗を流して築き上げてきた戦略爆撃ドクトリンが、たった一晩で紙くず同然か。このままでは、来るべき戦いで、空軍は真の力を発揮できないだろう!」


 彼の言葉は、酒と不満に煽られ、次第にエスカレートしていった。同僚たちは、顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべる者もいた。しかし、彼の言葉が、すでに背後の暗がりに潜む「耳」に届いていることを、グレコフは知る由もなかった。


 クラブの別のテーブルでは、ヤコブレフ技術将校が、密かに政治委員の一人と向き合っていた。彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいる。


「……そうです。彼の発言は、我が軍の新たな戦略に対する重大な異議であり、士気を低下させるものです。特に、上層部の決定を公然と批判し、若き将校たちの間に動揺を与えかねません。何より、彼の頭は古い。新しい時代には、新しい戦術が必要であり、それには、新しい発想の将校が必要です。」


 政治委員は、ヤコブレフの言葉に静かに耳を傾け、頷いた。


 空軍の空白

 数日後、グレコフ少将は、自宅でNKVDの黒い車に囲まれた。何の言葉もなく、彼は連行された。彼の逮捕の理由は、「反革命的活動」「国家戦略に対する重大な異議」とされた。彼が二度と、故郷の空を見上げることはなかった。


 彼の「消滅」は、空軍内部に衝撃を与えた。多くの将校たちは、沈黙を選んだ。グレコフの個人的な不満が、国家に対する反逆行為と見なされた現実に、彼らは深く戦慄したのだ。


 その頃、モスクワのクレムリンでは、シャポシュニコフがスターリンへの報告を終え、廊下を歩いていた。彼の耳には、遠くで響く機械の音が届いていた。それは、陸の「鉄の農民」を鍛える工場、あるいは要塞の基礎を掘り進める現場の音かもしれない。そして、それは、今や戦闘機と支援機の量産に集中する、空軍の新しい時代を告げる音でもあった。


 シャポシュニコフは、静かに目を閉じ、そして再び開いた。彼の顔には、微かな疲労の色が浮かんでいたが、その目は、より一層、冷徹な光を帯びていた。将官たちの「病気」や「転属」、そして「逮捕」という形で消されていく声は、スターリンの戦略を揺るぎないものにするための、必要な犠牲だった。そして、その犠牲の上に、ソビエトは「赤い鉄壁」を築き上げていくのだ。彼自身もまた、生き残るために、そして来るべき戦いに備えるために、感情を押し殺す術を完全に身につけていた。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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